悪役令嬢は世界のバグを修正する
市場の喧騒を抜けると、
音が変わる。
消えはしない。
だが、
薄くなる。
裏通り。
石畳は割れ、
水が溜まり、
空気は湿っている。
建物は低く、
古く、
光が届かない。
レティシアは歩を緩めた。
ここには、
呼び込みの声も、
値段のやり取りもない。
代わりにあるのは――
沈黙だ。
壁際に座り込む人影。
扉の前で動かない家族。
視線だけが、
こちらを追う。
カイルも何も言わない。
軽口を叩く場所ではないと、
分かっている。
一軒の家の前で、
レティシアは足を止めた。
扉は開いている。
中が見える。
狭い部屋。
粗末な机。
その上に置かれているのは、
パンが一つ。
それを、
三人で囲んでいる。
母親。
幼い子供が二人。
母親はパンを割る。
慎重に、
できるだけ均等に。
だが、
足りない。
どう分けても、
足りない。
一人の子供が言う。
「これだけ?」
責める声ではない。
ただの疑問。
母親は少しだけ笑う。
「……今日はな」
嘘だと分かる。
だが、
それしか言えない。
もう一人の子供が、
パンを見つめたまま呟く。
「もっと買えばいいのに」
母親の手が止まる。
ほんの一瞬だけ。
そして、
静かに答える。
「パン一つで半日分だ」
言葉が落ちる。
軽くない。
重くもない。
ただ、
事実として。
子供は黙る。
理解はしていない。
だが、
それ以上は言わない。
レティシアは、
そのやり取りを見ていた。
数字が浮かぶ。
価格。
賃金。
消費。
だが、
すぐに消える。
意味を持たない。
目の前にあるものは、
それでは測れない。
パンの重さ。
分ける手の動き。
止まる一瞬。
それが、
すべてだった。
(これは……)
胸の奥で、
何かが変わる。
(数字じゃない)
理解はしていた。
理屈も、
構造も、
すべて分かっていた。
だが――
これは違う。
“結果”だ。
仕組みの先にあるもの。
削られているのは、
流通ではない。
生活だ。
カイルが低く呟く。
「効きすぎてるな」
短い言葉。
だが、
その意味は深い。
レティシアは何も答えない。
ただ、
視線を外せなかった。
分けられたパン。
小さな欠片。
それが、
一日の半分。
それ以下の現実。
彼女の視界に、
何も表示は出ない。
出せない。
これは、
数式では表せない。
ただ、
確かに存在している。
レティシアは静かに目を伏せた。
そして、
再び顔を上げる。
その瞳には、
もう迷いはなかった。
理屈ではなく、
現実として、
理解したからだ。