余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
若い測量士は、報告書を書いた。
白い天幕の中。
血の匂いが、まだ野営地から消えていない。
外では、戻らなかった護衛たちの名が確認されている。
護衛二人。
封迷技師見習い一人。
彼らは迷靄洞から戻らなかった。
戻ってきたのは、若い測量士一人だけ。
そして、彼の前には白い紙が一枚。
ギルドへ提出する正式報告書。
その中央に、震える筆跡でこう書かれていた。
戻り水の中心は、北側にある。
筆先が止まった。
墨が、紙の上に落ちる。
ぽたり、と。
黒い染みが広がった。
まるで、水底に沈んだ嘘のようだった。
「手が震えているな」
声がした。
天幕の入口に、聖杭技師が立っていた。
白杭を肩に預け、静かに若い測量士を見ている。
若い測量士は、慌てて筆を置いた。
「……すみません」
「責めてはいない」
聖杭技師は机の前まで歩いてきた。
報告書を見る。
北側。
戻り水の中心。
その一文を、長く見つめる。
「本当に北か」
「はい」
「君は前回、正面通路の水戻りを疑っていた」
「今回は、より深く入りました」
「仲間を三人失って?」
若い測量士の顔が強張る。
「……はい」
「それで、北だった」
「はい」
聖杭技師は黙った。
報告書の文字を読んでいるのか。
筆跡の震えを見ているのか。
それとも、若い測量士が迷宮の中で何を見たのかを測っているのか。
やがて、聖杭技師は小さく言った。
「君は嘘が下手だな」
若い測量士の喉が鳴った。
だが、聖杭技師は報告書を破らなかった。
否定もしなかった。
「しかし、迷宮に入って戻った者の記録は貴重だ。たとえ嘘が混じっていてもな」
「嘘では、ありません」
「そういうことにしておこう」
聖杭技師は報告書の端に、自分の印を押した。
白杭の印。
正式記録として通す印だった。
若い測量士は目を見開く。
「なぜ……」
「北を叩く理由になる」
「……」
「そして、君が何を隠しているかを測る理由にもなる」
若い測量士の背筋が冷えた。
聖杭技師は淡々と続ける。
「次は北側に制圧班を入れる。君も同行しろ」
「僕も、ですか」
「ああ」
「僕は……」
「戻り水を見たのだろう?」
逃げられない。
若い測量士は、その場で理解した。
迷宮からも。
人間側からも。
彼はもう、ただの測量士ではない。
測る者ではなく、測られる者になっていた。
『ロード』
フィルエの契約糸が震えた。
『報告書、通った』
「そうか」
白い部屋で、余は監視面を見下ろしていた。
若い測量士は嘘を書いた。
そして聖杭技師は、その嘘を見抜きかけながら利用した。
「やはり、あの杭師は厄介だな」
《はい》
「嘘と分かっていて、北を叩くつもりか」
《北側を叩くことで、報告の真偽と測量士の反応を同時に観測する意図と思われます》
「人間のくせに面倒なことをする」
『ロードと似てるね』
「似ていない」
『似てる』
「似ていない!」
フィルエは笑うように、契約糸を軽く震わせた。
余は床に浮かぶ迷宮図へ視線を落とす。
北側。
そこには、もともと偽脈を少し濃く食わせてある。
封迷箱を一つ、効いたように見せた場所。
白杭の反応を、わざと濃くした場所。
人間が疑うには十分。
人間が信じるにも十分。
つまり、餌場にするにはちょうどいい。
「管理音声」
《はい》
「先程の戦闘で得たソウルは五十六だったな」
《はい》
「全部使うな。三割残す」
《危機対応用の予備ですか》
「そうだ。余は最近、学んだ。使い切ると慌てる」
《初期から慌てています》
「そこは言わなくてよい」
余は北側区画に指示を流す。
「北側偽脈を、もう一段濃くしろ。ただし中心は空にする」
《中心を空に?》
「そうだ。周囲だけ濃くする。中心に白杭を刺したら、反応が抜けるようにしろ」
《虚芯構造を形成します》
「それだ」
北側の土の下で、戻り水が細く動いた。
表面には出さない。
白砂の下でもない。
さらに浅い偽脈の周囲だけを濡らす。
中心は乾かす。
周りは濃い。
中心は空。
人間が中心だと思って杭を刺せば、そこは支えのない腹になる。
「影縫い大蜘蛛」
天井の奥で、巨大な脚が鳴った。
「北側には糸を張りすぎるな。今回は“蜘蛛がいる”と悟らせたくない」
《糸量を制限します》
「カゲヌイ」
影縫い罠師が、針を上げた。
「人間の足ではなく、白杭の影を縫え」
《白杭の影を縫うのですか》
「そうだ。杭が抜けないようにする」
《了解》
「赤錆噛みは、杭の根元を噛むな。固定金具だけだ。根元を折ると怪しまれる」
《了解》
「グズ」
入口側の泥が、低く震えた。
「お前は門を守れ。北には行くな」
「グオ……」
「不満そうにするな。お前の仕事は入口だ。逃げ道を塞げるのはお前だけだ」
「グオ」
少しだけ納得したように、グズが棍棒を床へ置いた。
門番長は、奥で暴れるより入口を握っている時が一番怖い。
それを、若い測量士にも見せたばかりだ。
「灰刃追跡者」
奥で、刃が鳴った。
「北側の白杭線を記憶しろ。人間が道を測ったら、その線を追跡路に変える」
《封線追い、待機》
「よし」
白い部屋の床に、新しい罠名が浮かぶ。
⸻
北側偽装餌場
《空芯の白杭返し》
概要:
北側に戻り水の中心があると誤認させ、白杭を虚芯に刺させる。
杭の影を縫い、固定金具を腐らせ、封迷圧を逆流させる。
⸻
「来い」
余は笑った。
「報告書を信じたい者から、北で喰ってやる」
北側制圧班は、その日の夕方に動いた。
早い。
怒りが、判断を急がせているのだろう。
ギルド護衛が三人。
白杭護衛騎士が二人。
封迷技師が一人。
聖杭技師の弟子らしい白杭持ちが一人。
そして、若い測量士。
聖杭技師本人は後方に残った。
来ない。
それが逆に嫌だった。
「本人は見に来ないのか」
《直接の危険を避け、反応を観測する方針と思われます》
「ずるいぞ」
《合理的です》
「余がやるなら褒めるが、人間がやると腹立たしい」
北側制圧班は、白砂を撒きながら進んだ。
前より多い。
乾いた布も持っている。
水を吸わせるための布だ。
さらに、小さな試し杭を束にして持っている。
反応を点で見るつもりらしい。
若い測量士は、その後ろを歩いていた。
顔色は悪い。
だが、目は死んでいない。
北側の土を見ている。
自分が書いた嘘が、現実として扱われるのを見ている。
白杭護衛騎士の一人が言った。
「ここが中心か」
若い測量士は、一拍遅れて答えた。
「反応は、そのはずです」
「曖昧だな」
「迷宮相手に断言は危険です」
「臆病者め」
騎士が鼻で笑った。
若い測量士は反論しない。
その代わり、北側の白砂をじっと見ている。
嘘だ。
彼は分かっている。
ここは本当の中心ではない。
だが、迷宮が“中心らしく”作っている。
そのことにも、気づき始めている。
「よいぞ」
『ロード、楽しそう』
「楽しいわけではない」
《楽しそうです》
「黙れ」
白杭持ちが、一本目の試し杭を地面に刺した。
白い線が土の中へ走る。
北側偽脈が、ゆっくり反応した。
濃い。
ただし、周囲だけ。
「反応あり!」
封迷技師が叫んだ。
「やはり北だ!」
護衛たちの顔に、勝ちを見つけたような色が浮かぶ。
若い測量士だけが、口元を引き結んだ。
「濃すぎます」
「またそれか」
「濃すぎる反応は、見せ札です」
白杭持ちが言った。
「だが、報告したのは君だろう。北だと」
若い測量士は黙った。
その沈黙が、彼をさらに追い詰める。
自分の嘘で、人間が進む。
自分の嘘なのに、止められない。
迷宮がそれを見ている。
「中心杭を打て!」
白杭護衛騎士が命じた。
白杭持ちが、長い杭を取り出す。
聖杭技師のものより細い。
弟子用だろう。
だが、十分に白い。
十分に硬い。
そして、十分に餌になる。
「カゲヌイ」
《待機中》
「杭の影を見ろ」
《視認》
白杭が持ち上がる。
夕方の光が、杭の影を北側の土に伸ばす。
その影が、白砂の上を通った瞬間。
「縫え」
カゲヌイの針が、土の下から影を刺した。
人間の足ではない。
白杭の影。
杭の影が、地面に固定される。
白杭持ちの手が、わずかに重くなった。
「……?」
「どうした」
「いえ、杭が少し……」
「刺せ!」
白杭が、北側偽脈の中心に突き立てられた。
中心。
そこは空だ。
周囲は濃い。
中心は乾いている。
支えがない。
杭が深く沈んだ。
「入った!」
「反応は!」
封迷技師が測器を覗く。
白い線が広がる。
一瞬だけ、強く。
そして次の瞬間、反応が抜けた。
「……消えた?」
白杭持ちが顔を上げる。
その足元で、戻り水が動いた。
周囲の濃い偽脈から、中心の空へ。
水が戻る。
反応も戻る。
白杭は、封じる針ではなく、戻り水を吸い込む管になった。
《空芯の白杭返し、起動》
「よし」
白杭の根元から、湿った音がした。
じゅ、と。
白杭の線が、白から灰へ濁る。
封迷技師が叫んだ。
「杭が吸われている!」
「抜け!」
白杭持ちが杭を引こうとする。
だが抜けない。
影を縫ってある。
さらに、赤錆噛みが根元の固定金具へ群がる。
ぎり。
ぎりぎり。
金具だけを腐らせる。
杭本体は折らない。
だから人間は、何が壊れているのか一瞬分からない。
「動かない!」
「切れ!」
白杭護衛騎士の一人が剣を抜いた。
その瞬間、白砂の下から湿骨兵の槍が出る。
狙いは騎士ではない。
乾いた布を持つ従者の手。
水を吸うための布を、まず落とす。
「ぐあっ!」
布が落ちる。
戻り水がそれを濡らす。
乾いた布は、一瞬で重くなる。
そして水を吸った布が、白杭の根元へ巻き戻った。
まるで、誰かが引っ張ったように。
若い測量士が呟く。
「戻ってる……布まで……」
騎士が怒鳴った。
「何を見ている! 報告しろ!」
若い測量士は、唇を噛んだ。
「中心ではありません」
「あ?」
「ここは中心じゃない。周囲だけ濃く作られてる。杭を抜いてください。今すぐ!」
「貴様の報告では北だった!」
「だから罠なんです!」
言った。
若い測量士が、ついに言った。
北は罠だと。
余は監視面の前で目を細めた。
「まだ完全には落ちぬか」
《対象は迷宮側の利益と人間側の生存判断の間で揺れています》
「よい。揺れろ」
完全に従う者より、揺れている者の方がよく見える。
若い測量士は、まだ自分を人間だと思っている。
だから苦しむ。
その苦しみが、次の鎖になる。
「殺しすぎるな」
《対象周辺の殺害制限を設定します》
「いや、一人は殺せ」
《了解》
白杭護衛騎士の一人が、若い測量士を突き飛ばした。
「黙っていろ、臆病者!」
若い測量士が白砂に倒れる。
その影が伸びる。
カゲヌイが反応しかけた。
「縫うな」
《縫いません》
まだだ。
若い測量士は殺さない。
縛らない。
自分で立たせる。
その代わり、突き飛ばした騎士の足元を使う。
「赤錆噛み。騎士の踵具」
《了解》
ぎり。
踵の留め具が腐る。
騎士が白杭を切ろうと踏み込む。
その足が滑る。
戻り水に濡れた布を踏む。
体勢が崩れる。
白杭の影に引かれ、剣の軌道がずれる。
そこへ、湿骨兵の槍。
脇腹。
鎧の隙間。
深く。
「ぐっ……!」
騎士が膝をついた。
まだ死なない。
白杭護衛騎士は硬い。
「灰刃追跡者」
《待機中》
「封線だけ送れ。姿は見せるな」
《封線追い、圧のみ展開》
奥から、冷たい追跡の圧が走った。
北側に刺さった白杭の線。
その線が、騎士の影へ繋がる。
逃げようとした騎士の肩が震えた。
「何か……見ている……」
「そうだ」
余は呟いた。
「お前が打った線だ」
騎士が後退する。
だが、線は追う。
封じるために打った白杭が、追跡者の目印になる。
騎士が叫んだ。
「杭を抜け! 早く!」
白杭持ちが必死に杭を引く。
だが影が縫われている。
金具は腐っている。
戻り水は杭を管にして、封迷圧を飲んでいる。
抜けない。
その瞬間、白杭の根元が灰色に沈んだ。
土が崩れる。
空芯が口を開ける。
騎士の片足が落ちた。
深い穴ではない。
だが、膝まで飲むには十分だった。
「引き上げろ!」
もう一人の騎士が腕を伸ばす。
若い測量士も、反射的に手を伸ばしかける。
だが、止まった。
死体は餌。
倒れた者も餌。
助けに行く者も餌。
迷宮で学んだことが、彼の手を止めた。
騎士がそれを見た。
「貴様……!」
その怒りの一瞬。
湿骨兵の二本目の槍が、穴の中から突き上がった。
喉。
白い襟が、赤く染まる。
《対象一名、死亡》
《ソウル獲得:二十八》
重いソウルが流れ込んだ。
強い人間は、迷宮の餌として濃い。
「よし」
余は短く言った。
北側制圧班が崩れ始めた。
白杭は抜けない。
白杭護衛騎士が一人死んだ。
乾いた布は戻り水に巻き戻されている。
封迷技師は測器を抱えたまま後退する。
白杭持ちは、杭を置いて逃げるかどうか迷っている。
若い測量士は、白砂の上に立ち上がった。
そして、白杭持ちに向かって叫ぶ。
「杭を捨ててください!」
「だが、杭師殿の――」
「死にたいんですか!」
白杭持ちが手を離した。
その瞬間、白杭は完全に沈んだ。
北側偽脈の空芯へ。
ずぶり、と。
白い杭が、迷宮の腹に飲まれる。
《白杭一本、回収》
《封迷圧残滓を取得》
「食えるか」
《解析可能です。灰刃追跡者、カゲヌイ、戻り水系罠への応用候補》
「最高ではないか」
余は笑いそうになった。
いや、少し笑った。
北側制圧班は撤退した。
白杭護衛騎士を一人失い、白杭を一本失い、北側の反応が罠だったという証拠を抱えて。
だが、その証拠は危うい。
なぜなら、正式報告書にはこうある。
戻り水の中心は北側。
そして実際、北側では強い反応が出た。
ただし、それは餌だった。
嘘が、半分だけ本当になってしまった。
これが一番面倒で、一番美味い。
「管理音声」
《はい》
「北側の記録をまとめろ」
《記録名は》
「報告書濡らし」
《正式罠名ですか》
「いや、戦術名だ」
白い部屋の床に文字が刻まれる。
⸻
戦術記録:
《報告書濡らし》
概要:
半契約未満の人間記録係に偽情報を書かせ、人間側の正式行動を誘導。
偽情報を完全な嘘ではなく、現地反応によって半真実化し、敵の判断を分裂させる。
成果:
・白杭護衛騎士一名死亡
・白杭一本回収
・北側制圧班撤退
・若い測量士の心理的拘束を強化
⸻
「心理的拘束か」
《はい》
監視面の向こうで、若い測量士は撤退していく。
彼はまた生き残った。
また仲間を失った。
また、迷宮の中で正しい判断をした。
そしてまた、人間側から疑われる。
彼の足元に、フィルエの契約糸がほんの少しだけ絡んだ。
まだ結ばない。
まだ引かない。
ただ、道を覚えさせる。
『ロード』
「何だ」
『若い測量士、今度は自分から嘘を守るかもしれない』
「どういう意味だ」
『北が罠だって分かってる。でも正式報告では北って書いた。次に責められたら、彼は自分の嘘を守るために、もっと細かい嘘を重ねる』
「よい」
『うん。落ちてる』
「まだだ」
余は監視面の奥を見た。
後方の天幕。
そこにいる聖杭技師は、おそらく北側制圧班の失敗を聞く。
若い測量士を疑うだろう。
北側を疑うだろう。
迷宮を疑うだろう。
だが、白杭を一本失った。
白杭護衛騎士を一人失った。
そして、戻り水の中心をまだ掴めていない。
「次は、聖杭技師が動く」
《可能性は高いです》
「よし」
《よろしいのですか》
「よい」
余は、北側の空芯に沈んだ白杭を見た。
白い杭は、戻り水に濡れながら、ゆっくりと灰色に染まり始めている。
あれは食える。
あれは学べる。
あれは、迷宮の次の牙になる。
「人間の杭を、余の罠に変える」
白い部屋の床下で、戻り水が静かに鳴った。
それはまた一枚、報告書を濡らす音だった。