常世神話譚 ー夜姫と最高神の千年恋譚ー
中央殿から少し離れた高台に、
石造りの静かな居場所があった。
そこが、太陽神・天照の住まう場所。
剥き出しの石枠にはガラスがなく、
初夏の風が素通りする。
空が近く、光の息遣いが聞こえる。
天照の加護が強い、
だからこそ許された開けた造りだ。
夜姫は足を踏み入れた瞬間、胸が少し震えた。
床や窓際には、生活の跡がある。
あちこちに積み上げられた本の山。
果実の籠。
磨かれた銀の杯。
燭台、酒瓶。
乱雑ではない。
――ただ、
「ひとりの青年の暮らし」があった。
(……アマテラス様も、生きている)
少しだけ、それが嬉しい。
天照は夜姫の視線など気にするふうもなく、
窓際に連なる石の長椅子へ腰を下ろす。
いつもより少し行儀悪く脚を組み、
こちらを見て笑った。
「ほら。いつまで突っ立ってる。
早く来いよ」
天照が叩いた隣の席にだけ、
柔らかなクッションが用意されている。
夜姫はそこへ、
ちょこんと腰を下ろした。
その距離。
手を伸ばせば、触れられるほど近い。
心臓がひどくうるさい。
「の件は気にするなよ。
あいつは昔から、ただ過干渉なんだ」
「……はい」
琥珀の瞳が覗き込む。
夜姫の灰青の瞳は、逃げ場を失った。
風がそっと頬を撫でた。
視線を逸らした先には――
眼下に広がる、果てしない大自然。
白い雲が柔らかく漂い、
その隙間からこぼれた光が、
標高の高い山々を照らしている。
常世草の白い花々が、
麓一面に咲き誇っていた。
「……すごい」
天照は、
林檎のように色づいた愛らしい横顔を見つめ、微笑んだ。
「夜はもっと綺麗だ。
夜空には星が輝いて……眩しい」
いつもより、天照の声が柔らかい。
夜姫の胸が、きゅっと鳴った。
天照が首を傾げる。
「何か飲むか?」
部屋に並ぶ美しい瓶の数々へ自然と目がいき、
夜姫は尋ねてみる。
「アマテラス様は……
お酒がお好きなのですか?」
その問いに、
天照の眉がわずかに上がる。
そして照れ隠しのように、唇が緩んだ。
「まあな。あまり酔えないから、
楽しみ方は下手だが……」
瓶を選びながら語るその姿は、
少年のように純粋で――
少し嬉しそうにも見えた。
やがて一本の細い瓶を光に透かし、
ぽつりと告げる。
「これは甘い貴腐酒だ。
飲み頃は、まだまだ先だな……」
天照は何かを閃いたように、
琥珀の瞳を輝かせた。
「お前が飲める頃には……
ちょうどいいかもな」
夜姫の胸が――跳ねた。
天照は貴腐酒を傍らに置き、
別の酒瓶と果実を手に取った。
慣れた手つきで刃を走らせる。
大きな掌。
煌めく刀身。
滴る甘露。
銀の杯に果汁を絞り、氷を落とす。
カラン――
風の音さえ、祝福に聞こえた。
天照は悪戯っぽく微笑むと、
夜姫の杯へひと滴だけ、
瞳と同じ琥珀色の酒を垂らす。
自分の杯には、その酒を半分ほど注いだ。
「飲んでみろ」
「でも……」
「これくらい大丈夫さ。祝杯だ」
低く響く声。
命令のように甘い。
夜姫は、一気に飲み干した。
――瞬間、世界が開いた。
頬が熱い。
胸が弾む。
灰青の瞳が宝石のように輝いた。
「おいしい!!
すっごく……おいしい!!」
天照が、ふっと笑う。
その笑みに、夜姫は無邪気に応えた。
大きな窓からひらりと、
常世草の白い花びらが舞い込んだ。
天照は舞う花びらの行方を見つめ、
傍らの貴腐酒へ指先を触れる。
「いつか……
これを、このまま飲もうな」
その言葉が、
夜姫の胸を破裂させた。
――止められなかった。
夜姫は弾かれるように身を乗り出す。
震える手で、天照の装束の端を掴んだ。
「…………
アマテラス様!」
少し驚いたように、
天照が石椅子へ手をついた。
灰青の瞳は、潤み、熱を帯びていた。
「私……
私ね、
いつか……
アマテラス様の……お嫁さんになりたい……!」
琥珀の瞳が大きく見開く。
「初めて会った時から……
ずっと……大好き……」
灰青の瞳が、
真っ直ぐに天照を離さない。
「今も……すごく……好き……
だから……っ」
空気が止まった。
天照は、固まったまま夜姫を見る。
小さな神体に宿る、
揺るぎない本気。
「…………」
どれほど時が止まっていたのかは分からない。
数分だったかもしれない。
その沈黙は、
夜姫には永遠のようにさえ感じられた。
天照の表情は、いつもと同じ。
冷静で、何も読めない。
ただ、肩がほんの少しだけ震えている気がした。
やがて少年めいた笑みを浮かべる。
「……そっか。夜姫、
ありがとな」
そっと頭に触れる。
「なら……早くここまで登ってこい。
俺を夢中にさせるくらいの、
女になってみせろ」
夜姫は心臓が爆発しそうなくらい、
この恋を確信した。
自分の一生を、この神に捧げる。
そう思った。
しかし天照は、
すぐに悪い顔をする。
「ま……
俺は結構モテるけどな?」
くくく、と少年のように笑っている。
酒を前にして、
機嫌がいいのだろうか。
どちらでも構わない。
優しかった。
優しすぎて、夜姫は泣きそうだ。
「はい。
……ぜったい、
……ぜったい頑張ります!!」
桃色に染まった夜姫の小さな顔が、
天照を覗き込む。
「……だから、
そばにいても……
いい?」
天照は吹き出す。
「このませガキ。
仕方ないな……
考えておく」
そして、
潤んだ灰青の瞳へ顔を近づける。
「特別だぞ?」
――彼のいる世界は、美しい。
初夏の風が、
眼下に広がる常世の大自然から舞い上がり、
銀の髪を揺らす。
その一筋が、夜姫の唇に触れた。
天照はそれを静かに整え、
灰青の瞳を真っ直ぐに受け止める。
光と夜。
太陽と影。
二柱の神が、
初めて同じ鼓動を鳴らした日。
――その瞬間。
夜姫の初恋は、
永遠に息をし始めた。
若い太陽と若い夜が、
互いの存在を
初めて愛おしいと知った記憶。
天照の人生で
最も明るかった、
たったひとつの、
まだ青い夏の午後。
二人だけの、
取り返しのつかない始まり。
その恋が、
のちに世界を壊すとも知らずに。