常世神話譚 ー夜姫と最高神の千年恋譚ー
——常世。
神々の住まう黄昏都。
その最も高い場所に建つ太陽宮の中庭へ、月の光が静かに降り始めていた。
白い石畳の向こうには、夜に沈みゆく草原。
崖の遥か下では、常降の街明かりが、地上へ落ちた星のように瞬いている。
中庭の中央では、神々が手ずから組んだ三つの石炉が赤々と燃えていた。
吊るされたランプが風に揺れ、円卓に並ぶ料理を淡い金色に照らしている。
宴は、すでに始まっていた。
「天照様が、宴を開いてくださるとはな!
こんな光栄なことはない!
ありがとうございます!」
快活な声が、中庭いっぱいに響き渡る。
声の主は、燃えるような紅髪の男神だった。
焔色の瞳は、声の勢いに反して穏やかだ。
天照や須佐男よりひと回り小柄ではあるものの、逞しい腕に、厚い胸板とよく通る声には、それを感じさせない存在感があった。
水波女の対——炎武である。
「良かったわね、炎武」
その隣で、水波女が蒼い瞳を弓なりに細めた。
普段は涼やかな顔を崩さない彼女も、今夜ばかりは頬をほんのりと染めている。
天照は二柱を眺め、満足げに口元を上げた。
円卓へいくつもの盃を並べ、慣れた手つきで酒を注いでいく。
水波女には、爽やかな果実酒。
炎武には、深い樽香を含んだ蒸留酒。
須佐男には、華やかに香る薫酒。
天照は、自らの盃へ芳醇な葡萄酒を満たした。
夜姫とコックルたちには、鮮やかな紅色の柘榴水が用意されている。
「こっちも良さそうだな」
「いや、次はこれだろう!」
須佐男と炎武は、天照が持ち込んだ酒瓶を次々とランプへかざし、早くも次の一杯を選んでいた。
炎を透かした瓶の中で、琥珀や深紅の酒が揺れる。
最後に、天照が夜姫の盃を手に取った。
柘榴水を注ぎ、その上から琥珀色の酒を一滴、二滴と垂らす。
「ほら、お前の分」
差し出された盃を受け取りながら、夜姫は天照を見上げた。
悪戯な光を宿した琥珀の瞳が、灰青の瞳を覗き込んでいる。
「“前”より、ちょっと多い……」
鼻先が触れそうなほど近い。
夜姫が声を潜めると、天照は何食わぬ顔で答えた。
「……まぁな」
「おい、こら! 待てィ!!
俺様置いて、イチャついてんじゃねぇぞ!!」
すかさず、須佐男が二柱の間へ顔を突っ込んできた。
水波女が吹き出し、炎武の肩が豪快に揺れる。
天照は須佐男の額を片手で押し退け、そのまま中庭の奥へ目を向けた。
篝火の輪から離れた、屋根のある柱廊の一角。
久遠は石座に腰を下ろし、風の通る暗がりに一人で佇んでいた。
長い黒髪が肩を流れ、背負った長剣の柄が月明かりを弾いている。賑わいに加わるでもなく、黒曜の瞳だけを、こちらへ向けていた。
「おい、久遠。お前も混ざれ」
天照が葡萄酒の盃を掲げる。
久遠は石座から動かなかった。
しばし、その盃を見つめていたが、やがて静かに立ち上がる。
「私は、戻ります」
衣擦れの音さえ立てず、柱廊から歩み出す。
その黒曜の瞳が、一瞬だけ夜姫へ向けられた。
「……久遠も、一緒に食べようよ」
夜姫の声に、久遠の足が止まる。
だが、振り返った先に見たのは天照だった。
「天照様。くれぐれも、深酒はなされませんよう」
淡々と告げ、再び歩き出す。
太陽宮へ続く階段へ足を掛けたところで、久遠はもう一度振り返った。
「冷えます。どうか、上着をお召しください」
追いすがろうとした夜姫を留めるように、黒曜の瞳がわずかに細められる。
それだけを言い残し、久遠は白亜の柱の向こうへ姿を消した。
「俺は冬でもこれだろ!
何百年経ったら覚えるんだ、あいつは!」
天照が大袈裟に両手を広げる。
肩から掛けた白い布の下には、鍛えられた胸板と腹が惜しげもなく晒されていた。
水波女が、すかさず夜姫の耳元へ唇を寄せる。
「でも、あの露出は反則よね。
胸板も腹筋も丸見えだもの。久遠が心配するのも分かるわ」
「…………!?」
夜姫の顔が、林檎のように赤くなった。
けれど次の瞬間、水波女の横顔を見て、さっと青ざめる。
「大丈夫」
その変化を見逃さず、水波女が笑う。
「私が感じるのは、炎武だけだから……」
水波女は余裕の表情で盃を掲げた。
炎武は聞こえていたのか、焔色の瞳を照れくさそうに伏せている。
「天照様。
今夜は素敵な宴にお招きいただき、ありがとうございます」
水波女は夜姫の腕を取り、篝火の輪の中央へ一歩進み出た。
「これも、可愛い対の夜姫様のおかげ。
——常世の最高神二柱、天照様と夜姫様に」
「いや、待て!
夜姫ちゃんの大親友、須佐男様にもだろ?!」
割って入った須佐男の顔を、水波女が片手で押し退ける。
なおも前へ出ようとする須佐男の両腕を、天照と炎武が左右から掴んだ。
足元では、五柱のコックルたちが懸命に背伸びをし、柘榴水の杯を高く掲げている。
「乾杯!」
いくつもの盃が重なった。
澄んだ音が弾け、夜気の中へ溶けていく。
炎武は普段、人間界の各地を旅しており、常世の都へ戻ることは滅多にないという。
天照より三百歳ほど若いと聞いていたが、夜姫には、その差などまるで分からなかった。
男らしい体つきに、裏表のなさそうな笑み。
何より、熾火を宿したような瞳が優しい。
炎武は最初の一杯を瞬く間に飲み干すと、夜姫へ身体を向けた。
「夜姫様とは、初めましてだな。
噂は風に乗って届いていた。
だが、あいにく常世の裏側まで出払っていてな。ようやくお目にかかれた」
「様なんて、いらないよ……」
夜姫は柘榴水の盃を両手に持ち、炎武を見上げた。
「私も、水波女の対に会ってみたかった。
よろしくね、炎武さん」
銀の髪が夜風に揺れ、月の光を細く弾く。
篝火を映した灰青の瞳の奥で、深い夜の神格が静かに揺らめいた。
炎武は一瞬怯み、息を呑んだ。
すぐに破顔し、豪快に笑う。
「……ははっ!
夜姫様の前じゃ、俺など子犬だな。
確かに、天照様の対だ。
べらぼうに強くて、美しい!」
あまりに真っ直ぐな褒め言葉に、夜姫は頬を染め、思わず顔を背けた。
「俺様の夜姫ちゃんだぜ!」
須佐男が背後から抱きつこうと、両腕を広げる。
その首根っこを、天照が片手で掴んだ。
「お前ら、俺の対にちょっかいを出すな。
まだガキだからな」
夜姫の頬が、ぷくりと膨れる。
それを見た天照は、少し楽しそうに目を細めた。
「な?」
夜姫の頬は、さらに膨らんだ。
——天照には、その理由がまるで分かっていない。