常世神話譚 ー夜姫と最高神の千年恋譚ー
「一番危ないのは、天照様でしょ?」
水波女みずはめの声が、篝火の向こうから飛んできた。
「この前だって、人間界でフィーバーしてたし。
このままじゃ、来年はどうなることやらね?」
天照は、わずかに口元を引きつらせた。
琥珀の瞳が、逃げるように炎へ向けられる。
水波女は蒼い瞳を愉快そうに細め、その横顔をなおも見つめていた。
円卓の端では、五柱のコックルたちが何も聞こえていない顔で、料理を口いっぱいに頬張っている。
「夜姫ちゃん、 あ〜〜ん♡」
須佐男スサノオが懲りもせず、夜姫へ向かって大きく口を開けた。
「仕方ないなぁ、須佐男は……。
はい、あーん……」
夜姫がフォークを差し出した、その直前。
横から伸びた天照の手が魚の身をひと切れ摘み、須佐男の口へ無造作に押し込んだ。
「んぐっ……うっまぁ!
水波女も夜姫ちゃんも天才か!」
須佐男は喉を鳴らして飲み込み、目を輝かせる。
いつもなら、ここから一悶着が始まる。
けれど今夜は、天照もそれ以上は何もせず、葡萄酒の盃へ手を伸ばした。
「アマちゃんはなぁ、俺がいなかったらマ・ジ・で!
超絶孤独で寂しい奴だからな!
ったく、感謝しろよ?!」
「……別に、お前がいなくても寂しくない」
「強がっちゃってぇ!」
須佐男の大きな手が、天照の背を何度も叩く。
天照が無言でその脇腹をどつくと、須佐男は「ぐえっ」と妙な声を漏らした。
なんだかんだで、二柱は仲がいい。
夜姫は紅い柘榴水を飲みながら、その様子を天照の隣で眺めていた。
手元の盃が空になっても、すぐには置かない。
視線の先で、天照は皿から葡萄を摘み、ひと粒ずつ形の良い口へ運んでいる。
先ほどから、そればかり食べていた。
「アマテラス様、美味しい?」
「ああ。これは昔から好きでな」
横目に夜姫を見た琥珀の瞳が、わずかに和らぐ。
天照はもうひと粒摘むと、そのまま夜姫の口へ放り込んだ。
歯を立てた途端、甘酸っぱい果汁が弾ける。
夜姫の灰青の瞳が輝き、その顔に無垢な笑みが広がった。
月はいつしか、白亜の列柱より高く昇っていた。
吊り灯の明かりが風に揺れ、長い影が石畳の上を行き来する。
食事と酒を重ねるうちに、水波女と須佐男には、すっかり酔いが回っていた。
篝火の外側には、いつの間にか二十本近い空瓶が転がっている。
その賑わいの中で、炎武えんぶは一人、揺れる炎を見つめていた。
焔色の瞳が、穏やかに細められる。
「実に、幸せだ……」
低く、確かな声だった。
水波女が隣で微笑み、そっと肩を寄せる。
「……本当にね」
炎武は少し俯き、その温もりを黙って受け入れた。
肩を寄せているだけなのに、二柱の間には誰も入り込めないような、深く静かなものが流れている。
夜姫には、その空気が少し眩しかった。
「二人は、普段離れているのに……寂しくないの?
旅をするときも、別々?なんだよね?」
炎武が、わずかに焔の瞳を見開く。
水波女よりは、まだ酔いが浅いらしい。
だが、答えたのは水波女の方だった。
「私たちに、どれだけの時間があると思ってるの?人間みたいな、ちっちゃなことは気にしないわ。 そうよね?」
「ああ。共に行きたい時は行くし、ふらりと行きたい時はふらりと行く」
蒼い瞳が、篝火を越えて遠くへ向けられる。
崖の遥か下では、常降とこふりの街明かりが瞬いていた。
「炎武には炎武の、私には私の、まだ見たい世界がたくさんある。
こうして、たまに会えれば、それでいいのよ」
そう言って、水波女は炎武を愛おしげに見つめた。
「参ったな……」
炎武は照れたように笑い、盃を傾ける。
「まぁ、俺たちは対だからな。
縛らずとも、離れようがない。
なら、ことさら時を急く必要もないだろう」
水の神と、炎の神。
相反する神格を持つ二柱の間には、長い時を重ねた者にしか辿り着けない絆があった。
「……すごい」
夜姫は、膝の上で指を重ねた。
「私には、耐えられない」
胸の奥から零れた本音は、篝火の音に紛れ、水波女と炎武の耳にだけ届いた。
水波女の蒼い瞳に、悪戯な光が宿る。
「素敵。
私たちより、もっと長い時を持つあなたが、そこまで想いを募らせるなんて……」
盃の縁を指でなぞり、水波女は声を潜めた。
「なら、少し協力してあげる」
少し離れたところでは、須佐男が天照へ、次に運動場で会ったときこそ決着をつけると声高に宣言している。
二柱には、こちらの話などまるで聞こえていない。
それを確かめた夜姫は頬を赤らめ、ほっと肩の力を抜いた。
その背後へ、水波女が音もなく回り込む。
「夜姫様、この間会ったときより大人っぽくなったんじゃない?
髪もまた伸びたみたい。いい匂い……」
「きゃっ……ちょっと、水波女?」
酔った水波女は後ろから夜姫を抱き寄せ、そのまま脇腹へ指を這わせた。
「く、くすぐったい……!
やめて、水波女……!」
夜姫の身体が跳ねる。
突然の騒ぎに、コックルたちは一斉に立ち上がり、どうすればよいのか分からず、その場で右往左往し始めた。
須佐男は面白そうに身を乗り出す。
「俺様も混ぜろ!」
天照だけは、止めるべきか判断しかねたように眉を寄せていた。
「おい、水波女……」
低い声が飛ぶ。
夜姫は逃げ場を見つけたように水波女の腕を抜け、そのまま天照の膝へ転がり込んだ。
両腕を天照の肩へ回し、しっかりとしがみつく。
「ずるいぞ、アマちゃん!」
須佐男が不満そうに口を尖らせる。
水波女は、してやったりと笑った。
「あら、逃げられちゃった。
天照様のところへ行くなんて、夜姫様も分かってるわね」
「水波女、お前は酔いすぎだ。
夜姫も、嫌なら嫌と言え」
天照は腕の中へ収まった夜姫を覗き込んだ。
肩に回された指が首筋へ触れる。
ひやりとした冷たさに、琥珀の瞳がわずかに細められた。
風が、中庭を吹き抜ける。
石炉から立ち上った火の粉が、星空へ吸い込まれていった。
天照は傍らに置かれていた厚手の布を取り、夜姫の肩から身体を包み込む。
「……少し、寒いだろ?」
夜姫は素直に頷いた。
布の中で小さく身を丸め、安心したように天照の腕へ身体を預ける。
篝火を挟んだ向こう側では、水波女と炎武が静かに盃を重ねていた。