【本編20万字完結】カストラート 〜傾国の歌劇(オペラ)〜【幕間更新あり】
カストラートとして世界中の王侯貴族を魅了し、政治家として国政の頂点を支配していた現役時代に、僕は個人として一生使い切れないほどの莫大な資産を築き上げていた。
王都のいくつかの大銀行には、今も僕の裏口座が手つかずのまま眠っている。
そのため、ここトロペイアでの隠居生活において、金銭的に困るようなことは何一つなかった。
けれど、僕はたまに、町外れにある小さな教会のささやかなコンサートに出演し、近隣の漁師や農家の人々から数枚の銅貨を稼ぐという、風変わりでささやかな愉しみを見出していた。
「――おぉ、なんて美しい歌声なんだ……」
「信じられない。まるで天から本物の天使様が降りてこられたようだ……」
目の肥えた貴族たちの前で、品定めするように聴かれるのとはまるで違う。
純粋に音楽を愛し、日々の過酷な労働の癒やしとして、僕の歌に涙を流して耳を傾ける素朴な人々。
彼らが差し出してくれる数枚の錆びた銅貨は、かつて王族から贈られたどんな宝石よりも、僕の心を温めてくれた。
八歳という幼さで時を止められた僕の肉体は、四十代を目前にしても、未だ、その全盛期と変わらぬ瑞々しい美貌を保ち続けていた。
肺活量こそ年齢と共に最盛期よりは僅かに劣るかもしれないが、長年の経験と技術によって研ぎ澄まされた僕のソプラノは、未だそこらの三流歌手など足元にも及ばないほどに、気高く、そしてどこまでも美しく響き渡る。
僕が紡ぎ出す旋律は、潮風の吹く崖の岩肌に優しく反響し、世界を黄金に染める夕日の海へと溶けていった。
『素敵ね、カース。……本当によかった。お父様も、ジュリアスも、教皇も……あなたを縛るものはもう何一つない。私たちが血を流して、ずっと求めていた「本当の音楽」を、今やっと手に入れたのね……』
脳内の『私』が、慈雨のような優しい声音で、僕の魂を抱きしめるように囁く。
((うん。アイシャ、それに僕たちの可愛い娘……。今度こそ、誰にも脅かされない、安全で平穏な家族の生活が始まるんだ。僕はもう、誰も殺さなくていいんだね))
隣で僕の歌を誇らしげに見つめる愛する妻アイシャと、波打ち際で無邪気に駆け回る愛娘の弾けるような笑顔を見つめながら、僕は胸の奥が、かつて知らなかった温かい幸福感で満たされるのを感じていた。
僕は信じていた。
あの悍ましい血の呪いはすべて王都の露と消え、この崖の上の楽園で、僕たちは静かに穏やかな生涯を終えることができるのだと。
――だが。
音楽神という名の、あまりにも残酷な劇作家は。
一度その身を地獄の業火に投じ、他者の血で生を繋いできた男に、そう簡単に真の『幸福』を与えるつもりなど、毛頭なかったのである。