電線ジャングル迷宮都市の電線はなくならない
部屋がしんと静まった。
ヘルマンがほんの少しだけ顔を横に向けた。革のジャケットの肩がわずかに震えている。表情は変えない。
父は机の上で指を組んだ。
「レナ」
「はい」
「『盗電の正当性』とは、初めて聞く言葉だな」
「……すみません、勢いで」
「いや、いい」
父はしばらく間を置いた。それからゆっくり続けた。
「お前の言いたいことは、よく分かった。観察も立派だ。映像もよく撮れている」
「……ありがとうございます」
「だが、私の権限では無理だ」
レナの肩が、ぴくと跳ねた。
「自然遺産の指定は、国営電力会社の事業範囲ではない。文化財保護院の管轄だ」
「で、では、文化財保護院に申請を……!」
「申請しても通らない」
「なぜですか」
父はふっと、わずかに微笑んだ。
そう笑った父を、レナは初めて見た。困った父の優しさの形だった。
「文化財保護院は、モンスターを天然記念物に指定することはあるが、人間に実害を与えるものまで保護の対象とはしないんだ」
「で、でも、人間と共存しているんですよ?」
「『人間が一方的に容認している』と扱われる。将来ダイナモンキーが増えすぎて、人間が『盗電』に耐えきれなくなったとき、保護されているので駆除ができない、のような問題が起きかねない」
「……」
「それから、もう一つ」
父は机の上に地図を広げた。
撤去対象のラインが赤い線で引かれている。龍脈発電施設から王都への送電経路。迷宮都市内の中継変電所。それだけ。
「迷宮都市内の電線網そのものには、我々は手を出せない。地主権限がギルドにある」
「……つまり」
「ダイナモンキーは、我々の計画範囲外だ。最初から」
レナは、しばらく絶句した。
撤去対象になっていなかった。最初からなっていなかった。
だから保護を提案する必要もなかった。一週間かけて撮った映像も、夜なべして作った資料も、全部的外れだった。
ヘルマンが、ようやく口を開いた。
「……だから、最初にそう言っただろう」
「ヘルマンさん!?」
「ギルマスと話をしろと。お前、あいつの話を聞いてなかったのか」
「だ、だって……!」
父が軽く咳払いをした。
「ただし、レナ」
「はい」
「民営インフラを今後どうするかは、地元の判断だ。我々国営電力は関与しない」
関与しない、という言葉の軽さに、レナはもう一度固まった。
父の中で線が引いてある。国営インフラと民営インフラの間に、まっすぐな線が一本。
父にとって無電線化は国営インフラの近代化であって、地元文化への介入ではない。きれいに引いてある。
(……だから、悪意がない)
(……だから、止められない)
レナは、それでも食い下がった。
「で、でも、地元のインフラが消えれば、ダイナモンキーは共存関係の半分を失います」
「共存なのか、寄生なのか、それは地元が判断することだ。私が口を出すことではない」
どこまで行っても線は動かなかった。
レナは、机の上の資料をぼんやり見た。表紙の「自然遺産保護提案」の文字が、急に子供っぽく見える。
部屋がしばらく静かになった。
投影器のファンの音だけが、低く回り続けていた。
父がヘルマンの方を向いた。
「……ヴァイス棟梁。少し、込み入った話をさせてほしい」
「ああ」
父はレナを見た。
「レナ。すまないが、少しだけ席を外してくれるか」
「……はい」
レナは頷いて立ち上がった。資料を抱えて出ようとして――
「あ、資料は置いていきます。後でご覧ください」
「ああ」
机の上に資料の束を置いた。
「……お茶、もらってきます」
レナは応接室を出た。ドアを閉める手がわずかに震えた。
ノートを資料の一番下に置き忘れていたことに、レナは気づかなかった。
***
廊下。
レナは、しばらくドアの前で立ち尽くした。
オフィスの奥から、配電盤の低い唸りが聞こえる。お茶をもらってくる、と言った。給湯室は廊下の突き当たりだった。
レナは、一歩進んだ。
それから止まった。
(……ノート)
机の上に置き忘れた。資料の一番下に紛れている。あれがないと、夜、宿で整理ができない。
レナは、踵を返した。
ドアの前まで戻る。ノックをしようとして、手を止めた。
ドアの向こうから声が漏れていた。
父の声。普段より少しだけ低い。家で母がまだ生きていた頃、書斎で父が独り言をつぶやくときの声だった。
レナの手は、ノブに届きかけて止まった。
ノックをするのが、はばかられる、何か。
レナは息をひそめた。ドアの隙間に耳を近づけた。
「ヴァイス棟梁。少し、込み入った話をさせてほしい」
「ああ」
「二十年前の、あの夜のことだ」
レナの手が、ノブの上で止まる。
「あの夜、迷宮都市から起こった、前例のない規模のモンスターの氾濫によって、世界各地にモンスターの被害が起った。王都には氷のドラゴン《フリッジラ》が現れた」
「……」
「王都が氷と大停電に包まれた夜。私の目の前に光があった」
「……」
「ダイナモンキーのLED光だ。私は一縷の望みをかけて、その光を追った」
「……」
「光に導かれるように進むと、ダイナモンキーのメスがいた」
レナの息が止まる。
「そのメスは、生まれたばかりの赤ん坊を、抱いたまま倒れていた」
「……」
「メスはもう息がなかった。けれど、赤ん坊は温かかった」
廊下の配電盤の低い唸りが、急に遠くなった。
「私はその子を抱き上げた。誰の子か、わからない。けれど、生きていた」
「……」
「身寄りのないその子を、我が子として育てることにした」
……
しばらく沈黙が流れた。
父の声が続いた。声の調子が、少しずつ組織人の口調に戻っていく。
「私はあの子の暮らしを守るために、王都の無電線化を推進し続けた。二度とあのような悲劇を、味わわせてはならない、と」
「……」
「私一人の力ではない。それは被災者全員の悲願だった。彼らは二十年をかけて、凍りついていた王都をよみがえらせ、電線のない街に変えたのだ」
「……」
「ヴァイス棟梁。迷宮都市の完全な無電線化には、市民の協力が必要だ」
「……」
「どうか、私に力を貸してほしい」
短い沈黙。
それからヘルマンの低い声。いつもより、ほんの少しだけ低い。
「……そりゃあ、断れねぇな」
椅子の軋む音。
「お話しするべきだと思った。あなたには」
「……あんた、ありがとよ」
もう一度、椅子の軋む音。父が頭を下げたのが、ドアごしにもわかった。ヘルマンも頭を下げていた。
レナはノブを握っていた手を、そっと離した。
しばらく扉の前で動けなかった。
ヘルマンの声がまた聞こえた。いつものヘルマンに戻っていた。
「ギルマスに話を通すぐらいは、できる」
「ありがたい」
「ただし、あんまり期待はするな」
「……というと」
「あいつは自分で判断する男だ。俺の口添えで動く玉じゃねえ」
「承知している」
「それでもいいなら」
「十分だ」
レナの耳の中で、いくつものばらばらだったものが、一気につながった。
ダイナモンキーのメス。
生まれたばかりの赤ん坊。
抱いたまま倒れていた。
朝、布団の中で腰から生えていたケーブル。長く毛深い、あの感触。
ミユンの「あなた、ダイナモンキー、ではないわよね?」。
市場のダイナモンキーを見上げるたびに、無意識に腰の後ろを押さえる癖。
つながった。けれど、つながった先がまだ像を結ばない。
(……私は、拾われ子)
(……じゃあ、そのメスは)
レナは、ドアの木目を見ていた。木目の節がはっきり見える。
(……母、と、呼んでいいのだろうか)
レナは、ゆっくり後ずさった。足音を立てないように、ゆっくりと。ノートのことはもう考えていなかった。
廊下の配電盤の音が、また聞こえ始めた。
レナは廊下を歩いた。指先が震えていた。震えを止めようとして、もう一方の手で握った。両手が震えていた。
給湯室に辿り着いた。湯沸かし器のスイッチを押す。リレーがカチと鳴った。お湯がポットの中で唸り始める。
レナは給湯室の壁にもたれた。
涙は出なかった。
出るほど、まだ自分の中で何が起きたのかわかっていなかった。
ポットがふぃっと鳴った。
レナは湯呑みにお湯を注いだ。三つ。
注ぎ終わって、もう一度ポットの蓋を開けた。お湯の量を確かめるふりをした。すでに空のポットを見ていた。
時間をつぶしていた。
しばらくしてレナはポットの蓋を閉めた。
お盆に湯呑みを載せた。両手でお盆を抱えた。お盆の縁がわずかに震えていた。