未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
白い光が閉じた時、レイルの足元から東京の水溜まりが消えた。代わりに現れたのは、天井まで30メートル近くある白い円筒空間だった。床も壁も継ぎ目がなく、足音だけが遅れて返ってくる。
壁面には12本の細い回廊が螺旋状に走り、最上部に1つだけ扉が見えた。扉の左右には、透明な白い箱が吊られていて、右の箱にノア。左の箱にフィア。
2人は意識を失っていない。ノアは赤縁眼鏡の位置を直しながら箱の内壁を叩き、フィアはすでに床へ膝をついて記録板を開いていた。
「隔離の基準が露骨ですね。術式設計と記録管理を先に外しています」
「訂正。隔離対象は2名ですが、管理機能の停止は未確認です。記録は継続します」
円筒の下層には、レイル、リィナ、セレネ、ユノ、カインがいた。数秒遅れて、森側へ残っていた安全綱が白壁を裂く。綱を両腕へ巻きつけたアルドが滑り込み、その後ろからミレア、クラリス、ロッテが順番に床へ落ちた。
アルドは着地と同時に盾を構え、ロッテは片膝をつきながら背負っていた工具箱を守る。ミレアは自分の呼吸より先に全員の瞳孔と姿勢を見回した。
「頭を打った人、吐き気、視界の欠け、手足の痺れがある人は今すぐ言ってください。黙って動いた人は、敵より先に私が寝かせます。特にレイル! 昨日の右肩を『昨日と同じだから新しい怪我ではない』みたいな分類で除外しないでください」
「右肩は昨日と同じ程度だ。新しい痛みも痺れもない。だから、現時点では動ける」
「動けることと、魔法を使っていいことは別です。今日は原則使わない。必要になったら、使用前に私たちへ条件を出してからにすること」
「わかった。状況を確認してから相談する。勝手には使わない」
ミレアはレイルの瞳孔を確認し、それでもまだ疑うように眉を寄せた。
「その『相談する』を、使う前の手順として【必ず】守ってください。相談した結果も、まずは使わない方法から探します。貴方が1人で必要判定まで済ませたら、それは相談じゃありません」
「分かったって。今回は順番を守る」
眠気を含んでいたミレアの目には、もう欠伸の気配がない。ロッテはレイルの左腰へ接続された【七環導杖】を見て、顔をしかめた。森都へ入る前に修理した近接追加武装【環刃短杖】は、三日月形の盾鍔を畳んだ状態で柄部へ収まっている。
「右肩は使うな。環刃を開くなら左手だけ。6層以上へ上げる時は、私かミレアのどちらかが条件を確認する。それを飛ばしたら、武器側を強制解除する」
「止められる状況なら従う、では駄目なんだろ」
「当たり前。そういう逃げ道を先に用意するから信用できないの。……ちゃんと戻ってきたら、次はもっと握りやすく直してあげる。排圧翼も、貴方の癖に合わせて詰める。だから今は、格好つけて全部使おうとしないで、壊す順番を守ってよね」
最後だけ声が柔らかくなり、ロッテは誤魔化すように留め具を一度強く押した。レイルが答える前に、円筒中央へ白い環が降りてくる。セリオス・カノンは、その環の内側から音もなく床へ立った。
白銀の短髪も、左右対称の制服も、先ほどとまったく違わない。東京の雨に濡れていたはずなのに、靴先に泥1つ付いていない。首の後ろの閉環だけが、呼吸とは無関係な速さで淡く明滅していた。
「矯正対象群の追加侵入を確認しました。人数差は許容範囲です」
セリオスは全員を一度見渡し、見ているのは顔ではなく、配置と役割に見える。
「対象レイル・アルヴァート。対象ユノ・アステル。帰還受諾の拒否を記録しました。苦痛は理解しています。ご安心ください。次は、間違えられません」
「間違える余地を消すことを、安心とは呼ばない」
「矯正前の対象が、同じ判断をする必要はありません。完了後の対象は、選択負荷から解放された状態で結果を受理します」
「完了前の俺たちが拒んでいるだろう?」
「拒否を確認しました。今後の工程へ反映します」
彼の表情には怒りも苛立ちもない。拒絶されるほど、作業項目が1つ増えたと言わんばかりに、ただ、受け止めている声だった。セリオスが右手を上げる。
「本領域へ【標準手順】を設定します」
円筒内へ白い線が走った。床から最上部の扉まで、1本の光路が螺旋回廊を縫う。途中には3つの可動壁、2本の断裂橋、4体の白い執行人形。
最上部の透明箱から、ノアとフィアを下ろすための解除盤が左右へ分かれている。
「勝利条件を提示します。隔離対象2名を救助し、最上部の扉へ到達してください。到達後、矯正対象群の役割を最適化します」
「役割の最適化とは何のことだ?」
「対象レイルは術式統括。対象リィナは前衛。対象アルドは防衛。対象セレネと対象ノアは演算。対象フィアは記録。対象ミレアは生命維持。対象ユノは帰還権限。対象カインは護衛。対象クラリスは復元。対象ロッテは保守です」
気味の悪いほどよどみなく淡々と、セリオスはそう告げた。
アルドが盾越しにセリオスを見る。
「役割自体は、今の俺たちと大きく変わらないわけか」
「だから危険なんです!」
セレネは光路の分岐を追いながら答えた。
「本人たちが選んだ役割を材料にして、役割の外へ出る道だけを消している。適性の否定ではなく、適性への固定です」
「正確です。標準外の負担を除去し、最適な行動のみを残します」
「私が剣を置きたい日に、置ける?」
リィナはレイルの顔を覗き込みながら聞いた。
「剣を置きたいと感じる必要そのものが生じないよう、前衛としての満足度と継続意欲を調整します。結果として、置くという選択肢は不要になります」
「それ、答えになってない。私は『置けるか』って聞いたの。置きたくならないように直されるかどうかじゃない」
「矯正完了後、その状態を本人が最適解として受理します。したがって、選択肢の不足は問題として認識されません」
継刃が鞘から1.5センチメートルほど抜かれ、鍔元で止まった。セリオスの表情は変わらない。
「開始してください。失敗した場合は再試行できます」
光路の左右から執行人形が動き出した。
「話し合いで停止する可能性は?」
クラリスが前へ出る。
「執行官セリオス。彼らは矯正を受諾していません。教会監査権限により、手順の停止と説明記録の提出を求めます」
「監査要求を受理しました。提出先が矯正施設管理権限と一致しません」
「白環帝国は現行教会の上位機関ではありません」
「現行教会は未完了の分岐組織です。統合後に監査結果を返却します」
白い人形の槍がクラリスへ向き、カインの剣が鞘を走り、槍先を横へ弾いた。声のない警告より先に、石板が床へ滑る。
【右、2体】
「動く。最初は提示された手順を観察する。扉へ入らない。ノアとフィアを回収した時点で止める」
レイルは全員へ告げた。
「標準手順を使うの?」
ユノの声に、嫌悪が混じる。
「従うためじゃない。どこまで行動を補助し、どこから選択を奪うか確かめる。帰還線は門が消えた時点で不明。隔離された2人を残したまま領域を壊す方が危険だ」
「私は構造を読みます。ですが、セリオスの提示した順番をそのまま勝利条件とは扱いません」
セレネが光糸を4本に分ける。
「私が道を開く。レイルは後ろと横を見て」
リィナは継刃を抜き切った。再鍛造された刃は、白い空間の光を細く返す。軽くなった刀身を無理に速く振らず、彼女は一度だけ手首を回し、鍔側へ寄った重心を確認した。
「アルド、2人の箱が下りるまで中央を守って。カインはユノと右。クラリスとロッテはミレアから離れない」
「了解した。守護対象は全員。俺自身も除外しない」
アルドが盾を床へ打ちつける。
「【完遂護陣】。終了条件、ノアとフィアの回収、全員の退路再確保!」
透明な防衛線が円筒下層へ広がった。標準手順の光路が、その線へ沿うように僅かに曲がる。
「守護手順を確認。適合率94%」
セリオスが静かに告げた。最初の可動壁が開き、彼らの普段の連携は、白環にとっても正しいらしい。リィナが先頭へ出た。
左右から迫る槍を継刃で受けず、刃先へ触れて外へ流す。軽い剣は以前より速く戻り、彼女の二歩目へ遅れずついてきた。白人形の胸へ斬り込まず、肘と膝の接続環だけを切る。
倒れた人形は床へ触れた瞬間、白い粒へ戻った。カインはユノの右を守り、石板ではなく剣の位置で次の人形を示す。ユノは補助魔法で足場の摩擦を落とし、敵だけを光路の外へ滑らせた。
セレネの4本の術式糸が可動壁を1枚ずつ止める。
「壁の周期は7.2秒。右から2枚目だけ0.4秒遅い。レイル、遅延壁の核を止められますか?」
「自作魔法ではないからな。保持するなら複雑対象1件として数える。右肩を使わず、接触は左手だけで行う」
「許可していませんよ!!」
ミレアが即座に返した。
「今止めないと、ノアの箱が壁の裏へ入る。接触は左手だけ、保持するのは可動壁の停止工程1件。複雑対象として扱う」
「保持時間を先に決めてください。痛みが出てからでは遅いです」
「―ー3秒以内。目的は箱が通れる幅を作ることだけ。完全停止を維持するつもりはない」
「分かりました。フィア、0.1秒単位で測ってください。3秒へ達する前に声が乱れたら、その時点で完成へ戻しましょう」
「記録します。未完記録1件、可動壁停止工程。開始時刻を読み上げます」
フィアの声は透明箱の内部から届き、隔離されても、記録板の通信までは切られていない。レイルは左掌を壁へ触れ、閉鎖直前の固定具から最後の噛み合わせを奪った。右目へ未完輪が浮かび、壁が15センチメートルを残して止まる。
アルドが盾を差し込み、ロッテが工具を投げた。
「その隙間へ赤い楔! 細い方じゃない、太い方! 細いの入れたら壁ごと工具が食われちまうよ!」
クラリスが楔を受け取り、壁の基部へ打ち込む。レイルは2.6秒で最後の噛み合わせを返し、壁は楔に当たって停止した。
「完了。身体状態は?」
ミレアが問う。
「痛みの増加なし。視界も正常。保持時間も条件内だった」
「それでも同じ方法をもう一度使う前提にはしません。次は別の道を探します」
「同意する。少なくとも、同じ条件のまま繰り返すつもりはない」
「『少なくとも』も要りません。言葉に逃げ道を残す癖、戦闘が終わったら治療対象に追加しますからね」
第一断裂橋へ到達する。幅は8メートル。下は白い光で底が見えない。
標準光路は橋の残骸へ沿い、クラリスの足元だけが淡く明るくなった。
「復元役を指定されています」
クラリスは崩れた橋へ手をかざした。
「事故前の構造記録があります。生体反応なし。橋だけを戻します」
「それは貴方自身の判断ですか」
レイルが確認するように問いを置く。
「今は、そうです。指定されたからではなく、全員を渡すために必要だと私が選びます」
【定型】の白光が橋を包む。破片が空中から戻り、床板と支柱が組み上がった。標準光路の明度が増し、セリオスが頷く。
「復元手順、適合率100%」
クラリスの眉が僅かに動き、褒められたのではない。選んだ行為を、最初から白環の手順だったことにされた不快さが表情へ残った。最上部の解除盤まで、残り半周。
白人形の数が増え、アルドの防衛線へ連続して打撃が入る。彼は一撃を盾で受け、二撃目を肩鎧へ流し、三撃目の槍柄を踏みつけた。後ろではロッテが七環導杖の柄部を開き、環刃短杖の接続を確認する。
「左手で開け。盾鍔を真正面へ立てるな。白人形の刃を短刃へ触れさせて、三日月の根元へ滑らせる。受け止めたら肩へ返る」
「解除盤を割るには6件必要だ。4層だと外殻へ届かない」
「6件を全部身体へ抱えるのは駄目。右肩へ反動を戻して2件増やすくらいなら、私が先に外殻へ穴を開ける」
「工具で上級相当の外殻を?」
ロッテは一瞬だけ、こんな時なのに妙に得意げな顔をした。
「技師を舐めるなよ。締める物も、切る物も、必要なら爆薬も工具のうち。私たちは『壊してはいけない』だけで仕事してるわけじゃないよ」
ロッテは工具箱から小さな円筒を取り出したが、ノアの声が上から飛ぶ。
「爆破は箱の吊索へ共振します! 共同研究者、6件使うなら形成だけに限定し、反動は外部排圧へ逃がしなさい。肩へ戻したら、今度こそ私が腕を没収します!」
「どうやって没収する」
「研究者には方法があります!」
「ないです。訂正します」
「あぁ......もっと訂正してください、いや――要求します」
「こんな時に何を言ってるんですか貴女は」
フィアの声が続き、緊張の中でいつものノアが一瞬だけ空気を紛らわせたが、事態は何も変わっていない。
ロッテが一度だけ鼻を鳴らした。
「4層を環刃側、残り2層を杖頭へ分ける。セプテム・ロッドの長軸を残したまま撃てば、片手砲じゃなく杖全体へ反動を逃がせる。それなら6件を許す」
「排圧板は何回持つ?」
「1回だけ。2回目は私の許可以前に、部品の方が『もう無理』って折れる。だから一発で仕事を終わらせて。……作った側からのお願い」
レイルは七環導杖を左手へ持ち替え、柄部の固定具を親指で外した。三日月形の盾鍔が手の甲側へ展開し、短刃と杖骨が並ぶ。長杖部分は肘の外側へ沿って後方へ伸び、掌中央の【生体導出端】だけが空いた。
小さな【風弾】を1つ形成し、結着直前で止める。2つ目。3つ目。
6つ目を保持した時、右目の環が三重にずれた。
「未完記録、6件。全て自作風圧、同型。保持状態、安定」
フィアが告げる。
「発射順、0.03秒間隔。外殻中央より左へ4センチメートル。右は吊索へ近すぎます」
ノアが照準を修正する。レイルは解除盤の外殻へ環刃短杖を向けた。
「未完記録、第1番から第6番。完成順、前から」
小魔法が1件ずつ完成し、七環導杖の内部を走り、環刃短杖の三日月環が砲身となり、6つの風圧が同じ一点へ重なった。
「――連環解放」
白い外殻へ細い穴が開き、爆発ではない。最初の風圧が表面を剥ぎ、後続が同じ穴を深く押し広げ、最後の1層が内部の固定核だけを砕いた。排圧板が1枚割れ、後方へ白い蒸気が抜ける。
レイルの左腕は持ち上がったが、右肩へ反動は戻らない。
「戻せ。今すぐ保持ゼロを確認」
ロッテが怒鳴る。
「6件、全て完成。残留なし」
「環刃を畳め。よし……ちゃんと指、動く?」
最後だけ声量が落ちた。レイルは指を順番に曲げた。
「動く。痛みも増えていない」
「ならいい。でも次も同じとは思うな。今日はここまで」
解除盤の核が消え、ノアとフィアの透明箱が下降を始める。リィナとカインが左右へ走り、箱の着地点から白人形を追い払う。ユノが降下速度を補助風で落とし、アルドが防衛線を箱の周囲へ移した。
箱が床へ着く。ノアは扉が開く前から内側の術式を逆算し、フィアは解放条件を記録している。ロッテが工具を差し込み、2つの箱を順番に開いた。
「全員、回収」
アルドが振り返る。
「終了条件の1つ目は成立した。退路はまだない。扉へ入らず、周囲を調べる」
その瞬間、最上部の扉が自動で開き、向こうには白い椅子が十二脚、同じ間隔で並んでいた。椅子の背には、それぞれの名前と役割が刻まれている。術式統括。
前衛。防衛。演算。
記録。生命維持。帰還権限。
護衛。復元。保守。
空いた二脚には、【補助対象】とだけ書かれていた。
「救助手順の成功を確認しました」
セリオスが両手を重ねる。
「【正解保存】。現在の行動順、役割配置、完成条件を保存します」
白環が鳴った。床から天井まで、今通った道筋が一瞬で白い記号へ変わる。リィナの剣路。
アルドの盾位置。セレネの術式順。クラリスの復元対象。
レイルの6層完成間隔。ノアとフィアを救助した時刻までが、閉じた環の内側へ収められた。
「選び直す必要はありません。正解は、すでに保存されています」
扉の中の椅子から、白い拘束帯が伸び、リィナが継刃を振り、最前列の帯を切った。
「これが、あんたの言う勝利条件? みんなを最も向いている椅子へ座らせて、立ち上がりたいって思わないようにするのが」
「各員が適性役割へ着席し、不要な選択負荷を除去した時点で完了です。失敗率は大幅に低下します」
「だったら、私たちはまだ一度も勝ってないよ。失敗できなくなることと、自分で勝つことは別だから」
リィナの答えと同時に、レイルが全員へ退却を指示する。だが床の光路が逆流し、円筒全体が白く塗り潰された。
「再試行します」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
【再試行領域】が起動した。次にレイルが目を開けた時、全員は円筒下層へ戻っていた。ノアとフィアは再び透明箱の中。
壊した解除盤は元どおり。橋も壁も人形も、開始時の位置へ戻っているが、時間が戻ったわけではない。左腕には6層発射の鈍い疲労が残り、ロッテの安全破断板も割れたまま。
リィナの呼吸も、アルドの盾へ残った傷も消えていない。
「記憶、疼痛、装備損傷は維持」
フィアが即座に確認する。
「環境だけが開始状態へ再構成されています」
「ご安心ください」
セリオスは同じ位置、同じ角度で立っていた。
「保存済み手順に従えば、先ほどより容易に完了できます」
最初の可動壁が、今度は彼らが動く前から開き、標準光路はリィナの足元へぴたりと重なり、前回の踏み込み位置を白く示す。アルドの盾を置く場所も、セレネが術式糸を伸ばす角度も、床へ表示されていた。
「一度目の成功を、檻へ変えた」
セレネが低く呟く。
「同じ順なら抵抗が減る。違う順へ出れば、施設全体が妨害するはずです」
「なら、違う順を試す」
リィナが前回とは反対の左足から踏み込んだ。床が数センチ沈み、足首へ重い抵抗が絡む。継刃を斜め上へ振ると、空気が粘ついたように刃へまとわり、前回の剣路へ戻そうとした。
「標準手順からの逸脱を確認」
セリオスの声。白人形の槍が、前回より速くリィナの肩を狙う。彼女は継刃で流したが、床の抵抗に二歩目を奪われ、槍柄が脇腹へ当たった。
アルドが間へ入る。前回より1メートル左へ盾を置いた瞬間、防衛線の外周が歪んだ。後衛側の床が伸び、ノアとフィアの箱がさらに上へ離れる。
「標準位置へ戻れと言っている!」
アルドは盾を押し返しながら叫ぶ。
「従えば、また椅子まで運ばれる。戻らない!」
戦闘は一度目より苦しくなった。同じ動きなら身体が軽い。しかし一歩でも変えると、床、壁、術式抵抗が全て戻そうとする。
レイルは4層の風圧を前回と違う順番で形成しようとした。2件目の結着直前、右目の環へ鈍い圧力がかかり、最初に保存された完成順へ並べ替えられそうになる。(能力を支配されているわけじゃない。形成経路へ、前回の方が抵抗の少ない道を押しつけられている)意識して逆らうほど、保持対象の境界が曖昧になる。
「レイル、解除してください! その4件は混線します!」
ノアの警告で、レイルは全件を前方へ小さく完成させた。風が散り、攻撃にはならず、その間に白人形の鎖がセレネの杖へ絡み、演算糸を切った。クラリスが橋を復元しようとするが、標準対象から外した支柱だけが戻らず、橋面が途中で崩れる。
カインがユノを庇い、肩へ槍を受けた。血は出た。環境だけが白いからこそ、赤がひどく目立つ。
「カイン!」
ユノが彼を支え、カインは石板を出す余裕もなく、片手で【戻れ】の形を示した。だが、戻る門はない。ミレアがカインへ駆け寄った瞬間、円筒全体が再び白くなる。
「継続困難を確認しました。再試行します」
二度目の再構成。カインの肩傷は消えない。痛みも残り、ミレアは開始と同時に止血し、ユノの手を傷口から離した。
「押さえる場所はここです。力を入れすぎない。カイン、意識は?」
彼は頷く。石板へ左手で書く。
【続行】
「続行じゃないっての。治療優先。勝手に格好つけて先に死んだら、墓からでも起こして説教するから。まじで」
ユノが睨むと、カインは消して書き直した。
【同行】
「……それなら、私も同じ」
セリオスは2人のやり取りを静かに見ている。
「負傷は完了後に除去されます。標準手順へ復帰してください」
「お前が付けた傷を、治すから正しいって言うな」
ユノの声から、いつもの気だるさが消えた。
「苦痛は正当化していません。矯正過程の誤差として記録します」
「誤差じゃない。カインが今痛い。それを後の私が感謝するとか、勝手に消すな」
レイルは周囲を見渡し、全員が一度目の成功と二度目の失敗を覚えている。装備は少しずつ傷み、身体も消耗している。一方、白環施設は毎回同じ状態へ戻り、繰り返せば不利になる。
だが、全てが戻っているわけではない。ロッテの破断板は割れたまま。継刃には二度目の槍を流した薄い擦過痕。
フィアの記録板には、再試行前の文字が残り、そしてセリオスの首の後ろの環には、先ほどまでなかった細い線が1本増えていた。
「フィア。正解保存は、何を基準に同じ手順と認識している」
「人物、開始位置、役割、行動順、使用術式、終了時刻。最低6項目を照合しています。完全一致だけでなく、類似度により抵抗を調整している可能性があります」
「1つずつ変えた程度では、同じ手順の誤差にされる」
「はい。異なる手順として成立させるには、複数項目を同時に変える必要があります」
セレネが眼鏡を外し、雨の名残ではなく汗を布で拭った。
「全員の役割を交換するほどの余裕はありません。ですが、役割の境界を重ねることはできます。剣士が救助し、記録官が術式を止め、技師が前衛へ出る。標準分類が1人一役を前提にしているなら、1つの行動へ2つ以上の目的を持たせる」
「分類を曖昧にする?」
「いいえ。私たちには明確で、白環にだけ1つへ決められない形にします」
ノアが透明箱の中から声を張った。
「加えて、完成手順を渡さないことです! 私の箱は解除術式を99%まで作れます。最後をレイルへ預ければ、前回と同じ救助になります。ですから預けません。今回は私自身が99%のまま別経路へつなぎます」
「箱の中から出られるの?」
リィナが逃がさないように問いを重ねる。
「正面扉は開きません。床の排熱孔を拡張します。美しくない、効率も悪い、査読されたら赤字だらけです。最高ですね、うぅ、たまらないです」
通常時のノアらしい笑みが、赤縁眼鏡の奥へ浮かぶ。フィアも記録板を立てた。
「私は救助対象の番号を確定しません。現在、隔離対象2名のうち1名は自己脱出手順へ移行。残る1名の分類は未確認として空欄を保持します」
「自分を空欄にするのか」
「訂正。自分を消すのではなく、白環側へ私の役割を確定させません。記録は私が持っています」
アルドは盾を持ち直した。
「俺の守護陣は、ノアとフィアを救うまでと設定したから保存された。次は終了条件を固定しない。目の前で守る必要がある者を全員含め、俺1人で完遂を宣言しない」
「それでは【完遂】が成立しない可能性がある」
「構わない。技を成立させるために、守る相手を技へ合わせる方が間違っている」
リィナは継刃の刃を見た。
「私は前を切り開かない。最初は後ろへ行く」
「白人形は誰が止める」
ユノが尋ねる。
「レイル、こっち見て。あんた、朝練で私の剣を何年受けてきたと思ってるの」
「今それを聞くなら、少なくとも避け方を思い出せって意味だと思ってる」
「正解。倒さなくていいし、格好よく勝たなくてもいい。避けて、流して、転んでも立って。私が戻るまで生き残って」
「戻る先は、どこに作る?」
リィナは一瞬だけ笑った。
「まだ決めない。私も走りながら決める。だからセリオスにも保存できない」
リィナは少し笑った。レイルは反論しなかった。(剣士ではない。けれど、剣を持った相手の前で何もできない魔導士でもない。朝練は、魔法を撃つための時間を作るために続けてきた)ロッテが工具箱を開き、割れた排圧板と環刃短杖を見比べた。
「環刃は前回の発射手順を保存されてる。砲身の角度も、盾の開き方も、今まで通りやったら全部白環のレールへ乗る」
「接続方向を反転できる? 左へ逃がしていた排圧を、杖頭側へ回せれば順番を変えられる」
「設計上はできない。安全構造として、逆接続を弾くように作ったから」
「でも、今の言い方だと方法はある」
ロッテは嫌そうに顔をしかめ、それでも工具を取り出した。
「私が設計したんだよ。できない場所と、『壊せば1回だけできる場所』くらい分かる。褒められた使い方じゃないけど、相手が完成品の手順を保存してるなら、未完成に戻すしかない」
ロッテは三日月鍔の根元へ細い工具を差し込んだ。
「安全破断ピンを1本、先に折る。盾鍔は左右非対称になって、正規位置では固定できない。逆手で持てば刃と杖骨が入れ替わる。受け流し角は最悪、照準もずれる、排圧は半分しか逃げない」
「使えるのか」
「使えるようにする。綺麗に使えるとは言ってない」
彼女は工具へ力を込めた。乾いた音とともに、破断ピンが折れる。環刃短杖の盾鍔が片側だけ5センチメートルほど落ち、完成品としての左右対称を失った。
「壊れる場所は私が決める。そこまでは職人の仕事。でも、壊した後の形を握って戦うのは貴方だ。『予定通り壊れたから大丈夫』なんて顔で無茶するなよ」
「無茶そのものを格好いいとは思ってない」
「嘘。貴方、自分が傷つく手順だけ妙に迷いがなくなる時がある。あの決め顔、本当に嫌い。見てる側は全然格好いいと思ってないから」
ロッテは言い切った後、レイルの左手へ固定帯を巻いた。指先が触れた時だけ、荒い動作が少し慎重になる。
「……今の『嫌い』は、そういう戦い方が嫌いって意味だから。変なところだけ拾って、後で妙に距離取ったりするなよ」
「そういう受け取り方はしていない。ロッテが心配して止めていることも分かってる」
「なら、こっち見て言え。工具箱に向かって理解を示されても、信用できない」
レイルが顔を上げると、ロッテの耳が僅かに赤い。彼女はすぐに手を離し、工具箱を勢いよく閉じた。
「よし。次。ニア、標準形態を捨てられる?」
少女型ニアが腰へ手を当てる。
「ニアちゃんノ盛れ盛れ少女形態ヲ捨てるトカ、重大案件なんですけど」
「できるか」
「猫型へ縮小可能! 白環サン的ニハ不要外形誤差デス!」
「なら、それで行け」
黒銀色の光が縮み、ニアは猫型となってレイルの肩から床へ降りた。白環の表示が即座に点滅する。
【補助端末外形:不適合】
【標準手順へ復帰してください】
「それな。復帰しませーん」
猫型ニアは尻尾を立てた。ユノはカインの石板を覗き込む。彼は【右/左】と書き、少し考えてから右側だけを消した。
残ったのは、斜線と【左】の一部。指示として不完全だが、ユノには意味が伝わったらしい。
「正しい出口じゃなくて、表示されてない方へ行くってこと?」
カインは頷く。
「了解。帰還勇者らしく、帰還扉を無視しますか」
クラリスは白い橋を見上げた。
「私の【定型】も、前回の橋復元が保存されています。別の対象を戻します」
「何を?」
ミレアの問いに、クラリスはロッテが折った安全破断ピンを拾った。
「この部品を、折れる直前へ戻します。ただし完全には接続しません。所有者であり設計者であるロッテ、受諾しますか」
「折った意味を消すなよ」
「形を戻し、取り付け位置は変える。以前と同じ機能にはしません」
「……面白い。やって」
クラリスの指先で、破断ピンが白く光る。折れた金属は1本へ戻ったが、ロッテはそれを元の穴へ入れず、盾鍔の外側へ斜めに差し込んだ。即席の止め具となり、非対称な環を逆手位置で固定する。
「復元して、別の場所へ使う。定型屋も、だいぶ悪い顔をするようになったじゃない」
「褒め言葉として記録します」
ミレアは全員の呼吸を見渡し、最後にレイルへ視線を止めた。
「再試行は、あと何回耐えられると思いますか。『戦況次第』ではなく、先に上限を決めてください」
「装備側は1回。身体は戦闘内容で変わるけど、8件保持は使わない。6件まで。右肩は術式経路から外す。生命魔法も封印する。そこを越えたら俺から中止を申告する」
「声が消えた場合は申告を待ちません。その時点で即中止です」
「同意する。今回は条件を後から増やさない」
ミレアがじっとレイルの顔を見た後、わずかに口元を緩めた。
「今度は『現時点では』を付けませんでしたね。少し学習しました」
「付けたら許可が下りないことを学習した」
「理由は不純ですが、結果は採用します」
彼女の口元が僅かに緩んだが、目は真剣なままだった。
「では、全員。痛みは残っています。忘れたふりをせず、それでも次を選んでください」
標準光路が、三度目の開始を告げるように白く明滅した。
けれど今度は、誰一人としてその光の上へ足を乗せなかった。