未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
白環施設の崩落から一夜が明けても、王核大陸の空には細い白煙が残っていた。
灰環側が設けた仮設診療所は、崩落地点から2キロメートルほど離れた岩棚にある。帆布の天幕を三重に張り、その周囲を牙冠王軍の兵と灰環の警戒札が囲んでいた。朝の風が布を鳴らすたび、遠くから石の崩れる鈍い音が届く。
レイルは寝台ではなく、診療所の端に置かれた折り畳み机へ座っていた。
右肩は厚い固定布で包まれ、左前腕にも薄い治療帯が巻かれている。黒灰色の外套は肩口が裂け、裾には白環施設の粉塵が灰のように残っていた。十六歳になって伸びた手足は、学院へ入った頃より明らかに細長くなっている。それでも今朝の姿だけを見れば、成長より消耗の方が目についた。
机の上には、昨夜持ち帰った物が並んでいる。
白環の被矯正者名簿。帰還不能者記録。外部保持媒体の断面図。セリオス・カノンの矯正前拒否記録。そして、三日月形の盾鍔が片側だけ歪んだ【環刃短杖】。
折れた安全破断板をロッテが指先で弾いた。
「ここ。予定どおり壊れたのは褒めていい。でも、次も同じ構造で6層を撃ったら、その次はこっちじゃなくて使用者が壊れる」
「右肩へ反動は戻さなかった」
「今回はね。だから怖いの。うまくいった失敗って、次も同じことをやりたくなるモンでしょ」
「失敗なのか成功なのか、どっちだ」
「道具としては成功。使用計画としては失敗。そこを一緒にするなって話」
ロッテは短杖を分解し、歪んだ排圧板を机へ置いた。肩まである長い髪は作業の邪魔にならないよう後ろで束ねられ、頬には昨夜拭ききれなかった煤が薄く残っている。普段のぶっきらぼうな声より少し低いのは、眠っていないせいだろう。
ミレアが横からレイルの右手を取った。今日も眠そうな目をしているのに、指先は迷わない。手首、肘、肩へ順番に触れ、魔力経路の反応を確かめる。
「右肩は昨日より少し落ち着いています。左前腕も、今すぐ悪化する感じではありません。ただし、それを『治った』へ勝手に変換しないでください。今日は基礎魔法まで。中級以上は私へ申告してからです」
「移動中に魔物が出た場合は?」
「まず他の人が戦います」
「全員が対応できない場合は?」
「そこで初めて相談します」
「相談している間に――」
「レイル」
名前で呼ばれ、レイルは口を閉じた。
ミレアは治療中だけ、時々こういう呼び方をする。眠気の薄い目で真正面から見られると、条件を追加する癖まで診察されている気分になった。
「貴方が必要だと判断した時には、もう貴方の中では結論が出ています。だから相談するんです。自分の判断を確認するためじゃなく、他の人の判断が入る余地を作るために」
「……分かった」
「今の返事は記録しておきます」
向かいでフィアが本当に記録板へ書き込んだ。
「【右肩・左前腕炎症継続】【中級以上、事前合議】。訂正が必要なら今どうぞ」
「ない」
「では確定します」
その隣で、セレネが外部保持媒体の断面図を広げていた。淡い金髪は昨夜ほど乱れていない。肩甲骨まである髪を片側へ寄せ、実験時用の細縁眼鏡の奥で青紫色の瞳が図面を追う。胸元の魔導演算石から四本の細い光糸が伸び、断面の異なる箇所へ印を付けていた。
ノアはそのすぐ横にいる。淡い金髪に赤縁眼鏡、赤紫の瞳。見た目だけならセレネと同年代の研究者に見えるが、中身は百年以上研究を続けてきた大術式魔導士だ。二人が同じ図面へ顔を寄せると、会話の速度だけが急に上がった。
「魂外へ完成直前工程を預ける思想そのものは理解できます。しかし、この構造は使用者の魔力経路を外部器官として延長しているだけです。事故時に戻ってきます」
「はい。白環側は使用者保護より、工程の保存を優先しています。切断条件がありません」
「なら外部媒体へ安全破断を入れるべきです。媒体自体が失われる前提で――」
「その場合、保持中の最後の一工程をどこへ返すかが問題になります。勝手に完成させるわけにはいきません」
「廃棄経路を別に作ると――?」
「完成権そのものを捨てられるかは未確認です」
レイルは二人の会話を聞きながら、机へ肘を置きかけて右肩の痛みでやめた。
「保持数を増やす前に、今の6件を身体へ通さない方法を考えたい」
二人が同時に顔を上げる。
「珍しいですね」
「何が」
「貴方から『増やす前に』という言葉が出たことです」
セレネの口元がわずかに緩む。
「同感です。レイル・アルヴァート、ようやく研究倫理が追いつきましたね」
「百年以上99%で止め続けている人に言われたくないがな」
「高度な自己保留です」
「それを欠陥と――」
「却下します、ですが指摘はいつでもお願いします」
ノアがぴしゃりと切ったところで、寝台側から笑い声がした。
リィナが壁へ背を預けて座っている。赤栗色の髪は肩より下まで伸び、戦闘中に結んでいた紐をほどいたせいで少し跳ねていた。脚部噴射と剣術で鍛えた体幹は細身でもぶれず、膝の上には再鍛造された【継刃】が置かれている。鞘を失った抜き身の刀身には布が巻かれ、使い込まれた鍔と柄頭だけが昔の傷を残していた。
「で、結局どうするのよ?」
「魔力量を増やすんじゃなく、同じ魔力でできることを増やそうと思っているんだ」
「それ、前から言ってなかった?」
「言っていた。でも実際には、6件、8件、上級、聖級って、使える数と大きさを増やしてきただろ?」
「自覚あったんだ」
「ある」
「じゃあ今度は?」
レイルは断面図を見た。
白環の設計は嫌いだった。完成を保存し、本人より正しい状態を優先する思想も受け入れられない。
それでも、敵の技術から学ばない理由にはならない。
「身体の外へ仕事を分ける。魔法も同じだ。全部を魔力で押し切るんじゃなくて、必要なところだけ動かす」
「必要なところだけ?」
「そこはまだ、まとまってない」
そう答えながら、レイルの頭の中では別の記憶が浮かんだ。
前世。深夜の机。未完成の小説フォルダ。魔法と科学を組み合わせた設定資料だけが増え、本編は数話で止まった作品がいくつもあった。
熱、圧力、粉体、振動、光、流れ。前世の自分は、そういう現象を魔法へ混ぜる設定だけなら山ほど考えていた。肝心の物語は、そのどれも最後まで書けなかった。
(使えるかどうかは、この世界で確かめればいい)
レイルは小さな手帳を取り出した。安全条件を書く術式帳ではない。表紙に【ネタ】とだけ書いてある、小さな帳面だった。
最初の行へ書く。
【魔法で全部やろうとしない。世界に仕事をさせる】
ニアが少女型で机の端へ腰かけ、黒銀色の猫耳をぴくりと動かした。
『おっ、ネタ帳復活。メンタルちょい上向き案件ですね』
「勝手に精神診断へ使うな」
『でも余白あるじゃないですか。最近のレイル、怖い時ほど端っこまで条件で埋めるし』
言われてレイルはペン先を止め、まだ白いまま残っている余白を見た。以前なら不安を埋める条件で真っ黒にしていた場所へ、リィナが横から顔を覗かせる。
「何それ。新しい必殺技?」
「まだ何でもない」
「じゃあ、完成するまで見せて」
「未完成の段階を?」
「今さらでしょ?レイルのは最初から最後まで、全部見たいの!」
肩が触れそうな距離まで顔を寄せられ、レイルは少しだけ身体を固くした。リィナは気づいたのか、気づかないふりをしたのか、そのまま手帳の余白を指で叩く。
「全部埋めなくていいよ。帰りながら考えれば」
その言葉に、レイルは頷いた。
机の端には、エルデ村の名が記された白環記録が残っている。
帰る場所が、次の調査地点になっていた。