未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
出発前日の夜明け、牙冠王都の外れにある訓練場には薄い霧が下りていた。
土を固めただけの広場へ三本の杭が立っている。加速開始、斬撃位置、停止限界。何度も使われた木肌には、リィナが過去に付けた切り傷や、脚部噴射で焼けた黒い跡が幾つも残っていた。
レイルは左手に木製の短杖を持ち、右肩へ負担が入らない位置で構えた。
向かいにはラガン・ティグリス。
2メートルを超える虎獣人の身体は朝霧の中でも大きい。灰褐色の毛並み、古傷の残る腕、腰の長刀。戦場では一歩の圧だけで人を退かせる男が、今日は刃を抜かず鞘のまま持っていた。
リィナは二人の間へ立ち、腕を組んでいる。
「あれ、レイルもやるの?」
「本来は、見るだけの予定だった」
「予定だった?」
「ラガンに杖を渡されたからな」
「ならやるんだね」
「嬉しそうだなリィナ」
「だって、私ばっかり叩かれるの不公平だし」
ラガンが二人の会話を切るように、鞘の先で地面へ線を引いた。
「剣の娘。今日は前へ出るな」
「昨日も似たこと言われた」
「魔導士。お前は後ろへ逃げるな」
「条件が逆じゃないか?」
「逆だからやるのだ」
ラガンは鞘を肩へ乗せる。
「お前たちは長く一緒に戦って、互いの得意へ逃げる癖が付いた。娘は前へ出れば、こいつが後ろを作ると思っている。魔導士は距離を取れば、娘が前を止めると思っている。悪い連携ではない。だが、崩れた時にはその頼り方が死角になる」
リィナの顔から笑みが薄れる。
レイルも短杖を握り直した。
「どうすればいい」
「今日は互いの役を借りろ。娘は後ろを見る。魔導士は俺から三歩以上離れるな」
「三歩?」
「お前の身体なら、それより離れれば魔法へ逃げたくなる」
「あちゃ、分析されてる……」
「何年見てきたと思っている」
合図もなく、ラガンの巨体が動いた。
ゴッ――!
霧が一瞬だけ渦を巻き、巨体がレイルの視界いっぱいへ迫る。長刀の鞘が右上から落ちる。右肩は使えない。レイルは短杖を横へ上げるのではなく、左足を半歩引き、鞘へ斜めに触れた。
ガッ!
腕で止めれば潰される重さを、杖の角度と足で横へ逃がす。鞘が肩の外を抜け、ラガンの肘がそのまま胸元へ入ってきた。
レイルは腰を落として肘の軌道から逃れようとしたが、避け切れず、外套の襟を硬い肘先がかすめた。
「目が上だ」
「剣先を見ろって教わった」
「今、剣は抜いていない」
尻尾が横から足首を払う。
レイルは跳ばず、受け身のために左手を地面へ着いた。身体を転がし、その勢いで短杖をラガンの膝裏へ差し込む。
倒せるとは思っていない。膝裏へ当てて次の踏み込みを一瞬だけ迷わせる――それだけで、ラガンの足は止まった。
「今のはいい。倒そうとしなかった」
「倒せない」
「そう思えるのがいい」
そこへリィナが入る。
今日は刃を抜かない。鞘に収めた【継刃】を腰へ置き、レイルとラガンの外周を回っている。
「リィナ、何してる」
「後ろ見てる!」
「楽しそうに言うな」
「いつもレイルがやってること、意外と忙しいんだね。足場、出口、荷物、フィアの位置、ノアが勝手に何か始めてないか――」
「最後は重要だろ、特に」
「もう、聞こえていますよ!......別にいいですけど」
訓練場の柵外からノアの声が飛び、リィナが笑った。その一瞬をラガンは見逃さない。
鞘が低く走る。
ギュンッ!
レイルは短杖を差し込むが角度が浅い。手首ごと押され、二歩下がった。
三歩目へ入る前に足裏へ魔力が集まり、身体は反射的に【脚圧噴射】で距離を取ろうとする。レイルはその魔力を散らし、あえて足で踏みとどまった。
右足を後ろへ置き、腰を落とす。左腕へ受けた力を地面へ逃がし、鞘から短杖を外す。
「残ったな」
「三歩以内」
「線を守っただけだ」
「最初はそれでいい」
ラガンが鞘を引いた瞬間、リィナがレイルの背中へ声を飛ばす。
「右後ろ、石!」
レイルは反射的に足を止めた。踵のすぐ後ろに、拳大の石がある。踏んでいれば体勢を崩した。
次撃へ移るラガンの肩が動く。レイルは避ける代わりに懐へ入り、長い鞘を振り回しにくい距離まで身体を寄せた。短杖の先が胸へ届く。
しかし手応えを確かめるより早く、ラガンの太い指がレイルの額を弾いた。
「痛っ」
「敵なら死んでいるところだ」
「訓練で額を弾く必要は?」
「届いた顔をしていたからだ」
「性格悪いね」
リィナが笑いながら近づく。
「でも、前よりずっといい。昔なら二歩目で風出してた」
「出した方が安全だった」
「ほら、すぐそれ」
「今日は出してない」
「うん。だから褒めてる」
真正面から言われ、レイルは返事が一拍遅れた。
リィナはその遅れに気づいて頬を少し赤くし、すぐラガンへ向き直る。
「次、私」
「まだ後ろだ」
「ええー」
「不満なら魔導士が三歩残せるようになるまで終わらんぞ」
「レイル、絶対逃げないで!」
「俺の責任が急に増えたんだが?」
朝霧が薄くなるまで、二人は何度も役割を入れ替えた。
リィナは剣を振るうより、誰がどこにいるかを見ることへ苛立ち、レイルは距離を取らず攻撃の内側へ残ることへ神経を削った。それでも、同じ失敗を繰り返すたびに足は少しずつ慣れていく。
最後の組手で、ラガンが二人を同時に相手取った。
ガギィンッ!
今度は継刃が抜かれた。リィナが鞘ごと刃を半分だけ引き、ラガンの長刀を受け流す。振り切らない。戻れる位置を残したまま、レイルの左側へ一歩入る。
レイルはリィナの影へ隠れず反対側から踏み込み、短杖をラガンの脇腹へ送る。ほぼ同時に、リィナの継刃が胸元へ伸びた。二方向から届いた攻撃を、ラガンは長刀の鞘と鉤縄でそれぞれ受け止めた。
「まだ遅いな」
息一つ乱れていない。
リィナが悔しそうに歯を見せる。
「二人がかりなのに!」
「二人が二人のまま来ただけだ。一つの動きにはなっていない」
「じゃあ、次は絶対に一つにする」
「次があるならな」
その言葉に、リィナの表情が少し変わった。
明日、王核大陸を発つのだ。
この訓練場へ次に立つ日が、いつになるかは分からない。
「あるよ」
リィナは継刃を鞘へ戻す。
「次も来る。今度は勝つんだから!!」
ラガンは少しだけ口角を上げた。
「なら、次まで生きろ。生き延びてみせろ」
レイルにも視線が向く。
「お前もだ。止まる条件を紙に書くのは上手い。だが、身体でもきちんと止まれ」
「努力する」
「努力ではなく覚えろ。実践しろ。」
「厳しいな」
「師匠というのは、そういうものだ」
リィナが笑う。
「レイル、師匠が一人増えたね」
「勝手に数へ入れるな」
「もう入ってる顔してるよ?」
レイルは反論しかけてやめた。別れの言葉を多く使わないラガンが残した「次まで生きろ」は、それだけで十分に重かったのだ。ネタ帳に「師匠が一人増えた。名前はラガン。」と書いてしまった。