未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
ラガンとの朝練を終えたリィナは、朝食を二人前食べたあと、そのまま別の訓練場へ連れて行かれた。
その先にいたのはヴァルカ・ゼインだった。
牙冠王都の南門近く、隊商用の荷車が出入りする広場の一角に、古い石畳だけが四角く残されている。ヴァルカはそこへ一本の線を引いた。
四本の腕を持つ女剣豪は、旅装の上から軽い革鎧を着ていた。上の二腕に長刀と短刀。下の二腕には鞘と鉤付きの小剣。黒褐色の髪は後頭部で高く束ねられ、額から左頬へ一本の古傷が走っている。
リィナが初めて彼女へ挑んだ時も、同じような線を引かれた。
勝負が終わったあと、自分だけが線の向こうへ転がっていた。
「これを覚えているか」
「忘れるわけないでしょ!」
「前は、斬る場所だけ見ていた」
「今日は違う」
「言葉ではな」
ヴァルカは上腕の長刀だけを抜いた。残る三本は鞘に収めたまま。
「一本でいいの?」
「四本欲しければ、使わせるよう仕向けてみろ」
「言ったね」
リィナの瞳が細くなる。
赤栗色の髪を後ろで束ね、【継刃】へ左手を添えた。再鍛造された刀身は以前より軽い。芯鉄、鍔、柄頭には昔の傷が残り、その外側へ新しい刃と風圧導線が組まれている。
まだ鞘は応急品で、抜刀時の引っかかりまで身体へ覚え込ませる必要があった。
「開始」
バシュッ!
リィナの右踵から短い風圧が弾ける。
真正面へ飛ばない。左斜めへ半歩ずらし、ヴァルカの長刀が最も伸びる線を外す。継刃を抜きながら腰を沈め、刃の根元で長刀へ触れた。
ギィンッ!
鋼が噛む。
ヴァルカの一本目を受けた瞬間、下腕の鞘がリィナの脇腹へ走った。
来ると思っていた。
リィナは剣を振り切らず、半分戻す。
鞘撃ちを刀身の腹で滑らせ、そのまま柄頭でヴァルカの下腕を狙う。
カンッ!
小剣の鞘が割り込み、柄頭を止めた。
「三本目!」
リィナが嬉しそうに叫ぶ。
「数えている暇があるか」
四本目。
短刀が低く足元へ来る。
リィナは跳ばない。右足だけを後ろへ引き、左踵から逆向きに噴射した。
ボシュッ!
身体が20センチメートルほど後ろへ滑る。短刀が靴先をかすめた。
そのまま止まる。
以前なら勢いが余って、開始線を越えていた。
「戻ったな」
「まだ勝負中!」
リィナはすぐ前へ出る。
【無終剣・継歩】。
一撃を終点にしない。斬り下ろしの力を次の踏み込みへ、踏み込みを突きへ、突きを受け流しへつなぐ。
ただし今日は、技をつなぐたびに一度だけ帰る位置を挟んだ。踏み込み、戻り、そこからもう一度前へ出る。その往復を潰すように、ヴァルカの四本の武器が別々の角度から重なる。
ギィンッ! ガッ! キィンッ!
異なる高さでぶつかった金属音が、石畳の広場へ鋭く弾けた。
リィナは全部を受けない。一本目を流し、二本目を鞘で外し、三本目は身体を沈めて避ける。四本目だけを継刃で止め、その反動を【無終剣・返環】へつなぐ。
切っ先はヴァルカの肩へ届く距離まで伸びた。だが同じ瞬間、上腕の長刀がリィナの首筋へ触れる寸前で止まっていた。
「はい、死んだ」
「……まだだよ!」
「死者は続けられない」
ヴァルカが武器を下ろす。
リィナは悔しそうに息を吐いた。額から汗が落ちる。呼吸は乱れているが、足は開始線の内側にある。
ヴァルカは自分の肩を見る。
革鎧の袖に、細い切れ目が一本あった。
「負けたな」
「うん」
「だが、戻ったな」
「……うん」
「なら前より強くなった」
リィナはしばらく黙った。
勝てなかった悔しさと、認められた嬉しさが同時に来たらしい。頬が少し緩み、それを隠すように継刃を鞘へ戻す。
途中で、刃がわずかに引っかかった。
ヴァルカがそこを見逃さない。
「全部抜くから戻しにくい」
「剣は抜いて使うものでしょ」
「必要な長さだけ使えばいい時もある」
「半分だけ?」
「抜刀を完成させることが目的か。相手を止め、自分が帰ることが目的か」
リィナは鞘の口元へ目を落とした。半分だけ抜いた刃で受け、そのまま鞘へ戻し、次は別の角度から必要な長さだけ抜く。頭の中で動きをなぞるほど、これまでの「抜いたら振り切る」という癖がはっきり見えた。
「……それ、変な剣」
「お前の剣は、最初から変だ」
「褒めてる?」
「好きに取れ」
少し離れた石段に座って見ていたレイルへ、リィナが振り返る。
「レイル、今の見た?」
「見た。短い抜刀なら鞘の負荷も減る。風圧導線を全部開かなくても――」
「そういう話じゃなくて!」
「じゃあ何だ」
「私、前より強かった?」
聞かれると思っていなかったレイルが一瞬だけ言葉に詰まると、リィナは待たされるのが恥ずかしくなったのか、誤魔化すように眉を寄せた。
「何、その間」
「いや。強かった。前より速いというより、止まる場所が分かってた」
「……そっか」
「あと、四本目を読む時、足じゃなく肩を見てた。ラガンとの訓練が――」
「そこまで分析しなくていい!」
耳まで赤くして怒鳴る。
ヴァルカは二人を見比べ、短く鼻で笑った。
「魔導士」
「何だ」
「剣の娘が聞いた時は、最初の一言だけで止めろ」
「難しいんだよそれが」
「そこから覚えろ」
リィナがますます赤くなる。
「ヴァルカまで何教えてるの!」
「帰る技術だ。会話も同じだろう」
「絶対違うもん!」
その後、ヴァルカは自分の古い鞘を一本、リィナへ渡した。
継刃には長さが合わない。だが口金部分だけが外せる構造になっている。
「持っていけ。新しい鞘を作る時、これを見せるといい」
「もらっていいの?」
「返したければ、次は勝って返せ」
リィナは両手で受け取った。
今度は軽口を挟まない。
「ありがとう。絶対返しに来るからね!」
ヴァルカは頷き、四本の武器を背へ収める。
「帰ってから強くなれ。帰る前に死ぬなよ」
石畳の開始線を、朝日が斜めに照らしていた。
リィナはその線を踏まずに越え、レイルの隣へ戻った。