未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
出発前の午後、レイルは灰環市場の外れにある地図塔へ呼び出された。
呼んだ本人は、塔の最上階で床いっぱいに紙を広げていた。
ミュラ・ノクテ。
王核大陸へ最初に落ちた時、レイルが保護した少女であり、その後は言葉と道を教えてくれた案内人だ。
小柄な身体に、灰色と褐色を重ねた軽い旅装。黒に近い髪は肩の少し下で不揃いに切られ、額には細い地図札が巻かれている。人間圏共通語は昔よりずっと増えたが、話し方は今も短い。助詞が抜け、必要な語だけを道標のように置く。
「レイル、遅い」
「約束より5分早い」
「ミュラ、10分前、来た」
「それはミュラが早すぎる」
「待った。だから遅い!」
「リィナと同じ理屈を使うな」
ミュラは意味を全部理解しているのかいないのか、口元だけで笑った。
床には二枚の大きな地図がある。
一枚は、レイルたちが最初の遭難時から書き足してきたもの。灰橋宿、牙冠王都、森都、白環旧塔、断航海域へ続く道。何度も折り畳まれ、角は擦れて柔らかくなっている。
もう一枚は新しい。
中央だけが描かれ、外周はほとんど白い。
「これ、持つ」
「俺が?」
「うん」
ミュラは白い部分を指で叩く。
「ここ、空白。ここも。北、もっと。海向こう、知らない」
「埋めていい?」
「全部、ダメ」
「地図なのに?」
「分からない道、分からない、書く。勝手、山つくらない。町つくらない」
「そんなことはしない」
「レイル、本書く。話、きれいにする」
「『王核大陸冒険記』は事実を書く本だ」
「なら、空白、空白で残す」
レイルは返事をせず、地図の白い部分を見た。
最初の『王核大陸冒険記』は、帰還してから自分が見たものを必死に整理した。食べ物、言葉、契約、灰環の仕組み。人間圏で「魔境」と一括りにされていた場所に、普通に暮らす人がいることを伝えたかった。
だが、書けば書くほど「分かったつもり」になる危険もあった。
「第二章、書く?」
「書くつもりだ」
「ミュラ、出る?」
「嫌なら名前を変える」
「出る」
ミュラは胸を張った。
「かっこよく書く」
「事実を書くって言っただろ」
「なら、いっぱい、かっこいい」
「自己評価が高いな」
「ラガン、言う。生きて帰る人、強い」
そこまで言って、ミュラは少し考えた。
「でも、失敗も書く」
「自分の?」
「レイル、水、飲ませすぎ。結び、多すぎ。ミュラ、説明、足りない。両方」
「最初の頃の話か」
「うん。今もレイル、結び、多い」
「ロープは解けない方が安全だ」
「解く人、困る」
同じことを昔も言われた気がする。
レイルは苦笑し、新しい地図を丁寧に畳んだ。
その横へ、ミュラが小さな札を一枚置く。切れた円と三本の線だけが刻まれた灰色の札だ。
「これは?」
「戻る道。約束札」
「どこへ戻る?」
「王核。ミュラ、いる所」
「居場所が変わったら?」
「探す」
「それ、道標として機能してないだろ」
「約束、道より強い時ある」
カタコトなのに、時々こういうことを言う。
レイルは札を地図と一緒に鞄へ入れた。
「また来る」
「うん。約束」
「いつになるか分からない」
「いい。完成、急がない」
ミュラはレイルの手元を見た。
鞄の外ポケットから、【ネタ】と書かれた小さな手帳が少しだけ出ている。
「それ、何」
「見なくていい」
「見る」
「駄目」
奪うような素早さは、さすが案内人だった。
レイルが止める前に、ミュラは開いたページを読む。
【四本腕の種族が料理したら、包丁と鍋と皿洗いを同時にできるのか】
しばらく沈黙。
「……レイル」
「何だ」
「これ、大事?」
「大事じゃないからネタ帳に書いてる」
「四本腕、料理、速い。皿洗い、嫌いなら、四本とも包丁」
「それは危ないな」
「書く」
ミュラが勝手に追記した。
【本人、皿洗い嫌いなら意味ない】
「字、上手くなったな」
「そこ褒める?」
「前より読める」
「もっと褒める」
「要求するのか」
「うん」
レイルは少し考えた。
「最初に会った時より、ずっと話せるようになった。俺が分からない王核語を教える時も、前より説明が上手い。地図も、俺より余白の使い方が上手い」
ミュラが瞬きをする。
頬がわずかに赤くなり、すぐ地図へ顔を戻した。
「……十分」
「今の『十分』は、時間じゃない方だな」
「何それ」
「何でもない」
窓の外には牙冠王都へ続く街道が伸びている。明日はその道を反対へ進む。かつては帰るためだけに覚えた道を、今はもう一度ここへ来るための道として記憶していた。
ミュラは最後に手を差し出した。
「レイル。また来る」
「ああ」
「勝手に終わり、しない」
「それも約束?」
「約束」
レイルはその小さな手を握った。
地図には、まだ広い空白が残っていた。