未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
レイルがミュラとあっていたころ別の場所。
ノアの母であるノエラ・ヴェインが待っていたのは、牙冠王都の北側にある古い貴賓館だった。
元は魔王種どうしの使節を泊めるための石造りの館で、窓は細く、外壁には夜色の蔦が這っている。昼でも室内は少し薄暗く、赤い絨毯だけが妙に鮮やかだった。
ノアは扉の前で一度立ち止まった。
普段なら迷いなく開ける。研究室でも戦場でも、彼女は答えを出す前にためらうことを嫌う。
それでも今は、赤縁眼鏡を押し上げる指が少し遅かった。
「一人で入るのか?」
後ろからアルドが聞く。
フィアはその隣で記録板を閉じている。記録しないために閉じたのだと、ノアには分かった。
「……いえ。外で待っていてください。ただし、15分経っても戻らなければ呼んでください」
「分かった」
「15分です。16分ではありません」
「分かった」
「即答されると不安ですね」
「なぜだ」
「貴方が時間を正確に守ると、今度は別方向へ迷う可能性があります」
「今日は扉の前にいる」
「なら安心です」
フィアが無表情に一言だけ足した。
「安心判定、条件付き」
「貴方まで乗らないでください」
ノアは息を吐き、扉を開けた。
室内の奥、細い窓から差す光の下にノエラはいた。
小柄で、外見だけなら二十代の貴族令嬢にしか見えない。夜紫色の長髪は腰近くまで流れ、赤黒い瞳の奥には長い年月を生きた者の落ち着きがある。黒と深紅を重ねた古風なドレス、その肩には薄い外套。白い指先には、小さな硝子管が一本挟まれていた。
「来たか、ノア」
「呼ばれたので」
「わらわが母として呼んだ、と言えば帰るかの?」
「帰りますね」
「即答か。なかなか刺さるのう」
ノエラは胸元へ手を当て、なぜか少し嬉しそうに笑った。
ノアの眉間に皺が寄る。
「……今、喜びましたよね?」
「娘に冷たくされるのも、百年を越えると味わい深いものじゃ」
「感動的な再会を自分で壊す癖でもあるのですか」
「もっと厳しく言ってもよいぞ」
「――やはり血縁を感じるのが非常に不愉快です」
ノエラは声を立てて笑った。
その笑い方が、吸血後に気分の高揚したノアと少し似ている。本人も気づいたらしく、ノアはますます嫌そうな顔をした。
「何がおかしいのです」
「いや。わらわが叱られた時の顔を、昔の父上にもよく見せたものじゃ。おぬし、そこはわらわ似じゃな」
「訂正してください」
「嫌じゃ」
「訂正しなさい」
「ほれ、その命令口調じゃ」
「……黙りなさい」
「うむ」
ノエラは満足そうに本当に黙った。
ノアは両手で顔を覆いかけてやめる。
「最悪です。今まで自分だけの悪癖だと思っていたものが、母親由来の可能性を持ち始めました」
「安心せよ。わらわも、おぬしほど研究論文を叩かれて喜んだ覚えはない」
「私は喜んでいません。厳密な指摘が研究刺激として有益なだけです」
「そういう言い訳をするところまで似ておるのう」
「帰ります」
「待て待て。15分も経っておらぬ」
ノエラはようやく硝子管を机へ置いた。
中には暗赤色の液体が少量だけ入っている。ノアの視線がそこへ落ちる。
「わらわの血じゃ」
「見れば分かります」
「おぬしが求めた時だけ使え。量は前に決めた範囲を越えるでない。嫌なら捨てよ。持っているだけでもよい」
「母親だから与える、と?」
「違う」
ノエラの笑みが消えた。
声も少し低くなる。
「わらわが、わらわの意思で与える。おぬしが娘であることは理由の一つじゃが、命令ではない。飲むか、捨てるか、持っておくか。決めるのはおぬしじゃ」
ノアは硝子管を見たまま、すぐには手を伸ばさなかった。
「昔も、そうやって私に選ばせたつもりだったのですか」
「……そう思っておった」
「何も知らされていない子どもに、選択肢はありません」
「うむ」
「守るために父へ預けた。追手がいた。白環も灰環利用派も危険だった。事情は理解しました。でも、理解したことと、許したことは同じではありません」
「分かっておる」
「本当に?」
「分かっておらぬ部分もある。だから、おぬしが怒るたび、ちゃんと聞こう」
ノエラは椅子へ座り直した。
「母だから許せ、とは言わぬ。母だから会え、とも言わぬ。わらわは百年以上遅れた。今さら急いで母親らしいことをしても、穴埋めにはならぬじゃろう」
「……珍しく、まともです」
「もっと褒めよ」
「はぁ。そこで台無しです」
ノアの口元がほんの少しだけ緩んだ。机の硝子管を手に取ったものの、飲みはしない。選択そのものを持ち帰るように、内ポケットへ大切に収めた。
「これは保管します」
「うむ」
「母親としての評価は、依然保留です」
「もっと厳しく採点してもよいぞ」
「なぜ嬉しそうなのです!」
「娘がわらわへ興味を持っておる証拠じゃからの」
「その解釈、本当に腹が立ちますね」
「よい。もっと来い」
「ドMですか貴方は!」
館の外で、アルドが扉を見た。
「声が大きいな、あいつ」
「親子会話としては平常範囲と推定します」
フィアは記録板を閉じたまま答えた。
室内では、ノアが額へ指を当てていた。
「……最後に一つだけ」
「何じゃ」
「次に会うまで、生きていてください」
ノエラの赤黒い瞳が僅かに揺れる。
今度は笑わなかった。
「承知した」
「お願いではありません。命令です」
「ならば、なおさら従わねばならぬな」
ノアは扉へ向かった。
開ける直前、ノエラが呼ぶ。
「ノア」
「何です」
「わらわも、おぬしに会えて嬉しかったぞ」
ノアは振り返らない。
「……そういうのは、もっと早く言ってください」
扉の外へ出る。
アルドが顔を見る。
「終わったか」
「質問を変えてください」
アルドは少し考えた。
「帰れるか?」
ノアは一瞬だけ目を見開いた。
横でフィアが小さく頷く。
「訂正不要です」
「……帰れます」
ノアはそう答え、二人の間へ歩いた。