未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
二度目の王核大陸での最後の夜は、牙冠王ガズル・ヴァルグの食卓で終わることになった。
王城の大広間には長卓が三列も並び、鍋、焼いた肉、岩塩をまぶした根菜、香草飯、見慣れない紫色の果実まで山のように置かれている。王族の送別宴というより、街全体で旅人を送り出す祭りに近かった。
中央の席にはガズル。
大柄なオークの王は牙冠を頭へ乗せ、豪奢な外套の下から腹を堂々と出している。王としての威圧感はあるのに、目の前の大皿が空くたび自分で肉を追加しているせいで台無しでもあった。
「食え食え! 帰り道で腹が減ったと言われても、我の王域は海の向こうまでは届かんブヒ!」
「王よ。感謝します、ですが、もう十分食べました」
セレネが丁寧に断る。
その横でリィナが四皿目を受け取る。
「わあ、ありがとう!」
「おぬしは実に気持ちよく食うブー!」
「待って。私は?」
セレネが自分でも意外そうな顔をした。
ガズルは首を傾げる。
「眼鏡の娘も食えばよいブヒ」
「眼鏡は今かけていません」
「細かいことは気にするなブー」
向かいではノエラが杯を傾けていた。
「そなた、王のくせに呼び方が雑じゃのう」
「腹が満ちれば名前も覚えるブヒ」
「順番が逆じゃろう!」
ミュラ、ラガン、ヴァルカも同じ卓にいる。ヴェリク・マルカートだけは食事の横へ分厚い契約書を置き、最後まで政治家の顔を崩していなかった。
灰色の上質な旅装に細い銀縁眼鏡。穏やかな物腰だが、指先は契約書の付箋を一枚ずつ確認している。
「レイル・アルヴァート。こちらをどうぞ」
「今か?」
「署名は帰還後で構いません。今は草案を渡すだけです」
差し出された紙束をレイルが受け取る。
とても厚い。
「何枚あるんだ」
「附則を除いて四十七枚です」
「多いぞ」
「貴方の安全条件帳より薄いですよ?」
「それなら薄いな」
「比較対象がおかしいって!」
リィナの声が飛ぶ。
ヴェリクは眼鏡を上げ、ほんの少しだけ笑った。
「内容は、人間圏と王核側の期限付き往来、共同調査、避難民保護、白環遺物の相互報告です。永続契約にはしていません。退出条項もあります」
「灰環らしい」
「ええ。次に来る時は遭難者ではなく、署名する側として来てください」
「その時も四十七枚?」
「増えるでしょうね」
「行く気が少し減ったんだが」
「減る程度なら、なおさら退出条項は必要です」
その会話を聞いていたラガンが、肉を噛み切ってから口を開いた。
「来るなら訓練場へ寄れ」
「俺も?」
「お前もだ。剣の娘だけではない」
「レイル、正式に師匠増えたね」
「増えてない」
「否定が遅い」
ヴァルカはリィナへ視線を向けた。
「おい娘。新しい鞘ができたら見せろ」
「うん。今度はちゃんと勝って返すからね」
「勝ったら返す必要はない」
「え?」
「勝った証拠に持っていけ」
「それ、絶対返せないやつじゃんか」
「それでも勝て」
リィナがむっとしながらも嬉しそうに笑う。
ミュラはその横で、皿から一つ果実を取ってレイルへ投げた。
「持つ。道、長い」
「ありがとう」
「種、食べない」
「毒?」
「苦い」
「それは先に言ってくれ」
「今、言った」
昔より会話は通じる。けれど、説明の順番だけは変わっていない。
宴の半ば、ユノとカインも席を立った。
ユノは藍色の髪を後ろへまとめ、いつもの気だるそうな目でレイルへ一枚の写しを渡す。白環施設から回収した帰還不能者記録の一部だ。
「私たちは王核側でもう少し追う。人間圏へ戻る線は別で確保してるから、たぶん先に帰るか、遅れて帰るか、どっちか」
「幅が広いな」
「帰還不能者調査って、だいたいそんなもん。……でも前みたいに、勝手に一人で消えるつもりはないから」
ユノがカインを見る。
カインは石板を上げた。
【同行】
「うん。知ってる」
以前なら、その一言を重いと感じていたかもしれない。
今のユノは少し笑った。
「レイルもさ。帰ったら、ちゃんと二人に話しなよ」
「二人?」
ユノの視線がリィナとセレネへ向く。
「日本のこと。あと、そっちじゃなくても、言ってないこと全部。私みたいに勝手に抱えたら、あとでめんどくさいから」
「分かってる」
「その『分かってる』、信用度七割」
「高いのか低いのか」
「前より高い」
カインの石板。
【話せ】
「お前まで」
宴の最後、ガズルが立ち上がった。
大広間のざわめきが自然に静まる。
「人間圏の客人ども!」
王の声が石壁へ響く。
「一度目は、帰れぬ子どもとして来た。二度目は、面倒な事件を山ほど持って来たブヒ!」
「すみません」
「謝るな、まだ終わっておらんブー!」
笑いが広がる。
「次に来る時は、英雄でも調査対象でも兵器でもない。ただの客として来い。腹を空かせて、土産を持って、また我の食卓へ座れブヒ!」
リィナが真っ先に手を上げた。
「それなら任せて!」
「おぬしは今も食っておるじゃろ やれやれ」
ノエラの突っ込みに、さらに笑いが起こる。
ガズルはレイルへ小さな黒い塊を投げた。
手のひらに収まる炉材。王核式の小型炉に使う耐熱素材らしい。
「土産だブ。湯くらいなら沸かせるぞ」
「兵器じゃなくて?」
「旅人へ最初に渡すのが兵器だと思うたかブヒ?」
「少し」
「失礼なやつじゃブー!」
レイルは炉材を握った。
この大陸へ初めて来た時、欲しかったのは帰還手段だけだった。
今は、持って帰りたい物が多すぎる。
地図。言葉。技術。約束。誰かの食卓の味。
「――必ず。また来る」
大きな言葉にするつもりはなかった。
それでも、声は広間へ届いた。
「今度は客として」
「うむ!」
ガズルが豪快に笑う。
「腹を空かせて来いブヒ!」