未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
牙冠王都を出て三日目のこと。
灰環の帰還中継港へ続く山岳街道は、左右を赤茶けた断崖に挟まれていた。
道幅は荷車二台がすれ違える程度。左側は岩壁、右側は深い谷。その下を細い川が白く光っている。帰還隊は二台の荷車と徒歩組に分かれ、午前中のうちに峠を越える予定だった。
レイルは荷車の横を歩いていた。
右肩の固定布は薄くなったが、まだ完全には外せない。【七環導杖】は背へ回し、破損した【環刃短杖】はロッテの工具箱へ預けてある。普段より装備が少ないだけで、身体が妙に軽く感じた。
「落ち着かない?」
隣を歩くリィナが聞く。
「何が」
「腰。さっきから三回触ってる」
「武器がない位置を確認してるだけだ」
「それを落ち着かないって言うんじゃない?」
「七環導杖はある」
「環刃がないと、近い時は私に任せるしかないね」
「短杖なら普通に使える」
「へえ」
「何だ、その顔」
「朝練の成果、見せてもらおうかなって」
言い終わるより先に、上空で岩が崩れる音がした。
ガラララッ――!
崖の上から小石が降り、荷馬が耳を伏せる。ニアは少女型のままレイルの肩口へ浮かび、黒銀の猫耳をぴんと立てた。
『上、十二! いや十五! 岩じゃない、飛んでる!』
空を横切った影が一つ、二つ、十を超える。
【岩翼裂鳥】。
翼の外側が鉱石質の殻に覆われた大型飛行魔獣で、羽ばたくたび薄い石片を刃のように飛ばす。単体ならBランク隊が苦戦するほどではない。だが、狭い崖道で十五体は面倒だった。
「荷車、壁側へ寄せる!」
アルドが即座に声を張った。
「セレネ、上空! フィア、頭数! ノアは荷馬の防護! レイルは――」
「前へ出ない。分かってる」
「言ってないぞ」
「言う顔だったんだよ」
アルドは少しだけ眉を上げたものの、そのまま盾を構えた。谷側から最初の裂鳥が翼を畳み、巨体そのものを槍にしたような軌道で荷車へ突っ込んでくる。
「三体、先行。後続十二。右上から石片!」
フィアの声。
セレネが眼鏡を上げ、四本の光糸を同時に展開する。
「一、荷車上部へ光幕。二、谷側へ風圧偏向。三、路面補強。四本目は空欄で保持します」
ババババッ!
石片が光幕へ当たり、乾いた連打音を立てる。その音を合図にするようにリィナが走り、右踵から風圧を弾かせた。
バシュッ!
右踵の噴射で一気に谷側へ出る。【継刃】を抜き切らず、三分の二だけ。滑空してきた裂鳥の翼殻へ刃を当てる。
ギャリィンッ!
刃を押し返すほど硬い翼殻だったが、ここで切断する必要はない。
刃の腹で翼角をずらし、鳥体を崖壁へ向ける。リィナ自身はその勢いに乗らず、左踵から逆噴射。
ボシュッ!
逆噴射でリィナの身体だけが狙った位置へ止まり、進路を変えられた裂鳥は壁面すれすれを抜けて慌てて羽ばたき直した。
「一体、進路逸脱。撃破なし」
「それでいい!」
アルドが二体目を盾で受ける。
ドンッ!
巨大な嘴が盾面へ当たり、アルドの靴が土を削る。正面から止めず、盾を傾けて谷側へ滑らせる。裂鳥は翼を広げて再上昇した。
ノアは荷車の上へ薄い術式膜を張った。完成しない防壁。中央に一筋だけ開いた空隙があり、岩片がそこへ入る前に左右へ流れていく。
「相変わらず穴がある」
「意図的です。閉じると圧力が逃げません。欠陥扱いしたら怒りますよ」
「今日はしない」
「成長しましたね」
レイルの頭上へ四体が同時に回り込む。リィナは谷側、アルドは荷車側へ離れており、すぐ隣に攻撃を受け持つ前衛はいない。
『レイル、上!』
一体目が石片を飛ばす。
レイルは七環導杖を抜いた。
右肩は上げない。左手だけで長軸を持ち、石片の一枚へ杖頭を触れさせる。
カンッ!
弾かない。角度だけ変える。
二枚目は身体を半歩ひねって避ける。三枚目は杖の柄で落とす。
石片を外した直後、裂鳥本体の巨大な爪が頭上から落ちてきた。レイルは距離を取るために後ろへ飛ばず、爪の内側へ潜る方を選んだ。
左足を外へ置き、爪の内側へ入る。七環導杖を短く持ち、鳥の脚へ横から当てる。
「【微風】」
生まれたのは、外套の裾を揺らす程度の小さな風だった。それでも爪の軌道は10センチメートル外れ、身体を通す隙間には十分だった。レイルが鳥の腹下を抜けた直後、
ゴォッ!
翼から押し出された風圧が背中の外套を激しく叩いた。
転びかけた身体を受け身で流し、膝をついたまま振り返る。
「無事!?」
リィナが戻ってくる。
「右肩は使ってない」
「聞いてるのそこじゃない!」
「無事だ」
「先に言って!」
怒鳴りながら、リィナの顔には少し笑みがある。
「今の、朝よりよかった」
「敵が飛んでたから条件が違う」
「褒めてるんだから、まず受け取って」
「……ありがとう」
「よし」
後続の裂鳥が一斉に高度を下げ、群れ全体が荷車を獲物と判断したように十五体で大きな円を描き始めた。旋回するたび間隔が揃い、次の突撃位置まで同じ高さへ整っていく。
「来ます。全方向から同時」
セレネの声が低くなる。
「レイル、保持は使わないでください。右肩の条件を崩す必要はありません」
「分かってる。普通にやる」
レイルは七環導杖を地面へ立てた。必要なのは熱でも大きな突風でもない。街道の崖側から谷側へ、互いに少し角度の違う細い風の流れを何本も通していく。
セレネが意図を読み、空欄にしていた四本目の術式をつなぐ。
「上昇流をずらす?」
「群れが同じ角度で入るなら、飛ぶための風を同じにしなければいい」
「了解。左半分を上、右半分を下へ」
ノアも加わる。
「では私は中央だけ乱します。翼そのものを攻撃する必要はありませんね」
「そう」
「面白い」
風は三方向へ分かれ、見た目には木の葉が揺れる程度しかない。ところが十五体が同じ角度で突入した瞬間、その小さな差が翼へ別々に作用した。左側は浮き、右側は沈み、中央だけが横へ流され、揃っていた編隊が一気に崩れる。
「今!」
崩れた群れへリィナが踏み込み、同時にアルドも盾を上げた。
ギィンッ! ドンッ! ガガガッ!
鳥体を殺さず、嘴、翼、爪の向きを次々に変える。カインがいない分、リィナが二方向を受け、セレネの光糸が三体を谷の反対へ誘導した。
数分後、群れは獲物を諦めて上空へ戻った。地上へ落ちた二体も致命傷ではなく動けずにいるだけで、残り十三体はそのまま逃走していく。荷車側の損傷は、帆布一枚のわずかな裂けと車輪外縁の欠けだけで済んだ。
フィアが記録板を閉じる。
「負傷者、軽傷二名。魔物撃破二。追撃不要」
リィナは継刃を納め、レイルを見る。
「今の、何?」
「風を作っただけだ」
「弱かったよね?」
「弱い」
「なのに群れ、ぐちゃぐちゃになった」
「飛ぶのに必要な風をずらしたんだ」
ノアとセレネが同時にレイルを見る。
その視線が妙に研究者の顔をしていたので、リィナが嫌そうに眉を寄せた。
「……また三人で難しい話始める気?」
「まだ始めてない」
「その顔、始める顔だよね」
レイルは答えず、崖を吹き上がる風へ目を向けた。大きな魔力を使わなくても、既にある流れへ少し手を加えるだけで結果は大きく変わる。
ネタ帳に書いた一行が、ほんの少し現実の形を持ち始めていた。