未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
帰還中継港へ着いた翌日、出港は昼まで延期された。
断航海域の風が荒れており、継路船の船長が「今出れば港を出る前に酔う」と判断したためだ。
空いた半日を休養へ使え、とミレアは言った。
だが――レイルは研究へ使った。
「休養の定義を聞いていいですか?」
港の倉庫裏にある空き作業場で、セレネが眼鏡越しに睨んだ。
「身体を酷使しないこと」
「研究は脳を使います」
「右肩は使わない」
「もう......そういう問題ではありません」
とはいえ、彼女もすでに机へ三枚の術式紙を並べている。
ノアに至っては赤縁眼鏡を外して拭き、完全に長期戦の様相を呈していた。
「では始めましょう。共同研究者、昨日の風路を再現してください」
「休ませる気がないな」
「私は休めと言っていません」
「堂々としてる……」
作業場の中央には、灰環技師から借りた直径1メートルほどの試験環が置かれている。外へ漏れた魔法を吸収し、事故時には自動で術式を崩す安全器具だ。
レイルはその中へ、小さな木片を一つ置いた。
「従来の重層は、同じ方向へ出力を積んでいた」
「【未完重層砲】ですね」
セレネが言う。
「1層目が表面を削り、2層目が同じ箇所を深くし、後続を同一点へ重ねる。6層なら6発分の形成を保持して、短い間隔で完成させる」
「威力は高い。でも、6層全部が敵を倒す仕事をしてる」
「それの何が問題です?」
ノアが首を傾げる。
「殴らなくていい層まで殴ってるかもしれない」
レイルは紙へ六つの小円を描いた。
「例えば、1層目は対象を動かすだけ。2層目は向きを揃える。3層目は逃げる方向を限定する。4層目で弱い箇所を作る。5層目は反動を外へ逃がす。最後の6層目だけが結果を出す」
セレネの青紫色の瞳が細くなる。
「各層を火力ではなく工程へする、と?」
「そう」
「しかし、工程数が増えれば術式自体の複雑性が上がります」
「だから全部を上級魔法にしない。基礎か初級で足りる役割は、小さい魔法でいいだろ?」
ノアが机へ身を乗り出した。
「ほほう、非常に興味深いですね。重層の定義を出力加算から機能分担へ変更する。つまり、完成時の総現象だけを見れば上級相当でも、内部は低出力の小術式群で構成できる可能性がある」
「再現性はまだない」
「一度も試していないなら、なおさら試す価値があります。そしてダメなら否定されたい。ああ、想像するだけでたまりません!」
ノアの声が明らかに弾んでいる。
セレネもすでに四本の光糸を紙へ伸ばした。
「まず安全な対象で。木片を倒すだけにしましょう」
「それなら1層で足りる」
「足りる結果を、あえて6工程へ分けて魔力消費を測るのです」
「なるほど、理にかなっているな」
試験が始まった。
1層目。【微風】で木片の片側へ空気を流す。
2層目。反対側の床へごく薄い湿りを作り、滑りやすさを変える。
3層目。小さな光で影を作り、ニアが角度を測る。
4層目。風を止めず、向きだけ変える。
5層目。倒れた木片が試験環へ当たらないよう柔らかい風路を作る。
6層目。指先ほどの風圧を一度だけ押す。
コトン。
木片が倒れた。
沈黙。
リィナが入口から覗き込む。
「……それ、普通に指で倒した方が早くない?」
「今は試験だ」
「六個も魔法使って、木一個?」
「だから試験なんだ」
「ふーん、すごさが全然分かんない」
ノアが記録板を確認した。
「総消費、従来の6層重層の10%未満」
「比較対象が違います。従来砲は破壊目的です」
セレネが冷静に返す。
「ですが、六工程を独立制御しても混線しなかった点は意味があります。レイル、今のうち三つは【未完】保持していませんね?」
「全部完成させたまま順番だけ重ねた。保持は使ってない」
「そこも重要です」
ノアが笑う。
「【未完】がなくても運用できる。これは貴方専用技術ではなく、一般魔術師へ落とせる可能性があります」
その言葉で、レイルは少し考えた。
自分だけが使える技なら、世界は変わらない。
誰かが読んで、真似できて、少ない魔力で同じ仕事をできるなら――それは魔法の使い方そのものを変えるかもしれない。
「名前、要る?」
リィナが木片を拾いながら聞く。
「まだ早い」
「でもノア、もう書いてるよ」
見ると、ノアの記録紙には大きく、
【低出力多機能重層・暫定試験一号】
と書かれていた。
「長いだろそれは」
「正確です!」
「呼びにくいって」
「研究名は呼びやすさで決めません」
「戦闘で言ってる間に死ぬよ」
リィナの指摘に、ノアが黙る。
セレネが口元を隠した。
「では仮に【誘発重層】でどうでしょう。直接結果を作るのではなく、次の現象を誘発する層を重ねる」
「それなら分かりやすい」
「私は元の方が論文として――」
「ノアは論文で長い方を使えばいいだろ」
「妥協として受理します」
リィナはまだ木片を持ったまま、不満そうに三人を見る。
「ねえ」
「何だ」
「これ、私にも分かるようになる?」
「実戦で使うなら、分からないと困る」
「じゃあ後で教えて」
「今聞けばいい」
「今は三人とも目が怖い。絶対三時間コースになる、そんなの私、耐えられないもん」
その判断は正しかった。
昼の鐘が鳴るまで、三人は六つの小さな魔法を何度も並べ替えた。
大きな爆発は一度も起きなかった。
それでもレイルは、久しぶりに「強くなった」とは違う手応えを感じていた。
魔力量が増えたわけでも、使える等級が一段上がったわけでもない。小さな魔法へ一つずつ違う仕事を任せただけで、必要な結果へ届く道筋が変わった。
その方が、ずっと面白かった。