未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
継路船が出港したのは、昼を少し過ぎてからだった。
王核大陸側の岸壁がゆっくり離れていく。灰色の帆へ魔力風を受けた船は、断航海域へ向かう外海航路へ乗るまで半日ほど沿岸を南下する。
レイルたちへ割り当てられた客室は二部屋だったが、出港直後から研究組三人は甲板後方の荷役台を占領していた。
レイル、セレネ、ノア。
机代わりの木箱の上には、紙、石片、小型魔力計、空の瓶、濡らした布、細かな砂を封じた安全試験筒が並んでいる。
少し離れたところで、リィナは【継刃】の手入れをしていた。
最初は。
「熱を出す必要がある場合も、対象全体を加熱する必要はありません。変化させたい境界だけでいい」
レイルが紙へ線を引く。
「流動も同じです。大量の水を作るより、すでにある流れへ向きを与える方が軽い」
セレネが隣へ書き足す。
「振動は?」
ノアが身を乗り出す。
「同じ場所へ何度も小さく力を入れる方が、大きな一撃一回より効く物はある。何でもじゃない。素材次第だ」
「なるほど。術式核へ直接破壊魔法を当てるのではなく、支持部へ小振動を継続して構造疲労を――」
「そこは実物で検証するまで断定しない方がいいです」
セレネが止める。
「もちろんです。私は仮説を述べただけです」
「顔がもう論文の結論を書いています」
「失礼ですね、でももっと指摘してください」
そのやり取りを聞きながら、レイルは前世の記憶を辿った。
(こういうネタなら、前世でも腐るほど考えた、な)
異世界へ転生した主人公が現代知識で魔法を工夫する。そんな小説を自分も何本も書こうとした。
火があるなら燃焼をどう使う。水があるなら圧力をどう使う。光が曲がるなら何が見える。空気を動かせるなら、ただ強風をぶつける以外に何ができる。
設定資料だけは増え、プロローグも書いた。必殺技には妙に凝った名前まで付けたのに、物語はどれも途中で止めた。
(俺も、いろんな異世界小説でやってたからな。ネタだけならある)
自嘲するような思いの後に、少しだけ別の感情が続いた。
(完成しなかった設定でも、使い道は残ってたってわけか)
レイルは紙の上へ大きく書く。
【現象利用術】
セレネが読む。
「正式な魔法系統名ですか?」
「いや。考え方の名前だ。属性じゃない」
「定義は?」
「魔力だけで結果を作ろうとしないこと。物質、熱、圧力、流れ、振動、重力みたいな、すでにそこにある現象を使う。魔法は、始めるための一押しか、向きを変えるためだけに使う」
ノアの赤紫の瞳が、分かりやすく輝いた。
「つまり、世界へ仕事をさせる」
「そういうことだ」
「非常に好みです」
「何の告白?」
背後から声がした。
振り向くと、リィナが立っていた。
継刃の手入れはとっくに終わっている。鞘を抱え、頬を少し膨らませている。
「どうした」
「別にいー」
「別にって顔じゃない」
「……ずるい。」
「何が?」
リィナの頬がさらに膨らむ。
「みんなだけずるい!!」
その大声に、甲板の水夫が一人、何事かと振り返った。
「セレネもノアも、レイルとずっと難しい話できるじゃん! 私、さっきから熱とか圧力とか、半分も分かんないのに!」
「勉強すればよいのでは?」
ノアが真顔で言う。
「百年以上研究してる人と一緒にしないでくれない!」
「年数だけで理解度は決まりません。私は非常に効率よく――」
「ノア、今は黙った方がいい」
アルドが少し離れた場所から忠告した。
「なぜです?」
「経験則だ」
フィアも頷く。
「同意します」
リィナは机の紙を指した。
「レイルもさ、セレネに説明する時は普通に何時間でも喋るし、ノアとは夜中まで式書くし。私には『危ないから下がれ』とか『ここ斬って』とかばっかりじゃん」
「戦闘中に熱膨張の話を長くしても困るだろ?」
「そういうとこおおおっ!」
レイルは困った。
何が欲しい言葉なのか、分かるようになったと思った時ほど外す。
セレネは眼鏡の奥で少しだけ勝ち誇ったような目をしていたが、リィナと目が合うとすぐ視線を逸らした。
「……なら、ここからはリィナがいないと進まない」
レイルが言う。
「えっ?」
「理屈で弱い場所を作れても、本当に実戦で使えるかは別だ。相手は止まってない。俺たちが何時間計算しても、動いてる相手のどこへ刃を入れられるかは、リィナの方が分かるんだ」
「わ、私が?」
「昨日の裂鳥もそうだった。風で姿勢を崩せても、それだけじゃ荷車を守れない。最後に進路を変えたのはリィナとアルドだった」
リィナの頬が少し戻る。
「じゃあ、私も研究仲間?」
「実戦検証担当を任命しよう」
「それ、偉い?」
「失敗したら研究組が机ごと吹き飛ぶのを止める役でもあるぞ」
「急に責任重いじゃん!」
セレネが小さく咳払いする。
「補足します。レイルの説明は少し乱暴です。私たちが作った仮説を、実際の間合いと人体の動きへ落とし込めるのは、現状ではリィナが最も適しています」
「セレネまで……」
「事実を述べただけです」
リィナが嬉しそうに笑う。
その顔を見て、今度はセレネの髪の周囲へ小さな光球が一つだけ浮いた。
ニアが見逃さない。
『おっ、研究チーム内の恋愛バランス、微妙に変動――』
「ニア」
「ニアちゃん」
「「だまって」」
レイルとセレネの声が重なる。
『はい、解析終了しまーす』
研究は続いた。
危険な現象は、小さな密閉試験環の中だけで扱う。量や条件を実戦用へ落とす前に、安全停止を先に作る。
細かな粉体が空気中へ浮くと、条件次第では一瞬で激しく燃える可能性がある――レイルがそう説明した時、リィナは本気で嫌そうな顔をした。
「それ、小麦粉とかでも?」
「種類による。だから現実の食料で試さない」
「絶対だよ」
「安全試験用の代替粉体を使う」
「食べ物を戦術候補に入れた時点で、ちょっと信用下がった」
「前世の小説では定番ネタだったんだ」
言ってからレイルは一瞬止まった。リィナとセレネが同時にこちらを見る。日本で生きていた頃のことは、まだ二人へ最後まで話していない。偽の東京から戻った時に交わした約束が、そのまま残っていた。
「……小説?」
セレネが静かに聞いた。
「前の世界で、俺も異世界の話を書いてた。魔法に科学っぽい理屈を混ぜる話も、何本か考えた。ほとんど途中で止めたけど」
「ほとんど?」
リィナの声が少し柔らかくなる。
「いや、全部だったな」
レイルは笑った。
昔なら、この話はもっと言いにくかった。
「最後まで書けなかった。でも設定だけは残ってる。だから、ネタはある」
リィナはしばらく黙り、それから手を机へ置く。
「じゃあ今度は、途中で捨てないで」
「研究を?」
「研究も。話も」
セレネも続ける。
「前の世界のことも、です」
「……分かってる」
「今回は、その『分かってる』を記録してもよいですか?」
フィアが遠くから聞いた。
「聞こえてたのか」
「甲板ですので、声はよく通りますよ」
レイルは頭を掻いた。
「記録していい」
船の後方で、王核大陸の海岸線が少しずつ霞んでいく。
机の紙には【現象利用術】の四文字が残った。
前世で終わらなかったネタが、この世界では研究の入口になろうとしていた。