未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
断航海域へ入って二日目の午後、海は朝から荒れていた。
水平線まで鉛色の雲が垂れ、継路船の船体が大きく上下する。風を受ける魔導帆は半分まで畳まれ、船腹に埋め込まれた流動安定器が波のたび低い唸りを上げていた。
レイルは船尾側の甲板でロープを確認していた。
昨日まで【現象利用術】の話をしていたが、今日は紙を広げられる天気ではない。潮風が強く、立っているだけで外套の裾が持ち上がる。
『大型魔力反応、下から!』
ニアの声が鋭く変わり、猫耳の少女型投影が甲板中央へ飛んで右舷を指した。十数メートル先の海面が一度だけ不自然に盛り上がる。
ズザァァァン――!
次の瞬間、水柱を真っ二つに割って長い胴体が空へ跳ね上がった。
青黒い鱗。翼に見えるのは薄い膜ではなく、水と風を絡めた半透明の魔力翼。頭部から背へ白い角が並び、全長は船体の半分を超えていた。
「【暴潮翼蛇】だああああっ!」
船員が叫ぶ。
「帆を全部畳め! 雷じゃない、風圧種だ! 上を取らせるな!」
翼蛇が旋回する。
海面から吸い上げた水が胴体の周囲へ帯となり、巨大な螺旋を作り始めた。
「現象利用で崩せる?」
リィナが【継刃】を抜きながら問う。
レイルは周囲を見る。
足場は揺れる。粉体も固定物もない。熱差を作るには範囲が広すぎる。何より相手が高速で動いている。
「無理だ。準備する条件がない」
「じゃあ?」
「こういう時は、普通に撃つだけだ」
セレネが即座に頷いた。
「合理的です。省魔力は目的ではなく手段ですから」
「そういうこと」
暴潮翼蛇が口を開く。
圧縮された海水と風が一つにまとまり、船腹へ向いた。
『着弾まで4.6秒!』
「アルド、船員を中央へ! ノア、船尾側へ防壁! セレネ、俺の左へ!」
「右肩は?」
ミレアが甲板の反対から声を飛ばす。
「上級一発だけ。右腕は使わない。左掌と杖頭に分ける!」
「一発後、即診断。それ以上は許可を取り直してください!」
「了解だ!」
レイルは【七環導杖】を左手で立てた。
詠唱はしない。レイルは頭の中だけで工程を通す。
始動。六つの風圧核を起こす。
形成。船の前方へ半円状に配置する。
そして、結着。
最後の一工程だけを、声ではなく魔力経路の切り替えで閉じる。
「【旋風陣】」
ゴォォォォッ――!
甲板の外へ六本の風柱が立ち、一つの旋風へ噛み合った。
上級風圧魔法。
完全に安定した無詠唱ではない。事前に核配置を読み、セレネが船体の揺れを補正し、ニアが風向を表示している条件付き。
それでも、言葉を発する前に術式は立ち上がった。
翼蛇の水圧奔流と旋風が船首前方で正面から噛み合った。
ドォォォンッ!
水塊が白く砕けて甲板へ雨のように降り注ぎ、その反動で船体が左へ大きく傾く。レイルの左腕にも重い衝撃が返り、七環導杖の先端が跳ね上がった。
「終了!」
ミレアの声。
レイルは旋風を維持しない。術式核を一つずつ切り、最後の風柱まで消す。
「終了確認。右肩痛は?」
「増えてない。左腕は重い」
「それなら次はありません。残りは別手段で」
「分かった」
翼蛇も無傷ではないが、まだ倒れる気配はない。自分の奔流を正面から崩されたことへ怒ったように首を反らし、
ギャァァァァッ!
耳を刺す高音を海上へ響かせた。
上空へ舞い上がり、今度は船の真上から急降下を始めた。
「私が行く!」
リィナが船縁へ走る。
「待て、高さが――」
「道だけ作って!」
レイルは反射的に止めかけて口を閉じた。ヴァルカとの訓練を見たばかりだ。今のリィナは、前へ出ることしか考えない剣士ではない。
「セレネ、射線三本!」
「形成します!」
セレネの四本の光糸のうち三本が、船縁から上空へ斜めに伸びる。
足場ではない。リィナがどこへ飛べば、翼蛇の頭、翼、船へ戻る線が一直線になるかを示す目印。
レイルは【未完】を使わず、小さな風弾を六つ作った。
一発ずつ撃つのではない。
短い間隔で同じ空間へ並べ、階段のように圧力点を作る。
「6層、全部完成状態。保持なし!」
フィアが確認する。
「リィナ、三歩目の先は空だ。最後は自分で戻れ!」
「分かってる!」
バシュッ!
リィナの両踵から風圧が弾けた。一つ目の圧力点を足場のように蹴り、二つ目、三つ目へ身体をつないで高度を上げていく。
高度が足りないところだけ、レイルの風弾が背中を押す。
四つ目から先は、翼蛇自身が作る上昇流へ乗った。
「今!」
継刃を抜いたのは半分だけだった。急降下する翼蛇の角へ刃の腹を触れさせる。
ギィィィンッ!
リィナはそのまま斬り抜けず、接触した一瞬だけ角度を奪った。
刃の腹で頭部の向きを外へ滑らせ、そのまま鞘へ半分戻す。身体が翼蛇の横へ流れた瞬間、左踵を逆噴射。
ボシュッ!
逆噴射でリィナが身を離した直後、翼蛇は船の中心を外れて海面へ突っ込んだ。
ズガァァァン――!
巨大な水柱が立ち上がり、その上で足場を失ったリィナの身体が落下へ転じる。
「戻る!」
セレネが空欄として残していた四本目の光糸を船尾へ伸ばし、アルドも盾を水平に構えて着地点を作る。レイルは最後の風弾一つをリィナの落下軌道へ当て、身体を持ち上げるのではなく速度だけをわずかに削った。
リィナの靴が盾面へ触れ、アルドが膝を曲げて衝撃を逃がした。
ドンッ!
「着地!」
「帰還確認!」
フィアが声を上げる。暴潮翼蛇は海面から一度だけ頭を出して船を見たものの、追撃は選ばなかった。傷ついた翼を震わせ、そのまま深い海へ潜っていく。
甲板へ座り込んだリィナが、濡れた前髪を上げた。
「勝ったよね?」
「追い返した」
「同じでしょ」
「討伐依頼じゃないから」
「今くらい喜んでよ!」
レイルは少し笑った。
「すごかったよ」
今度は余計な分析を付けなかった。
リィナが目を丸くする。
「……それだけ?」
「それだけ」
「そっか――」
頬が赤いのは、戦闘の熱だけではなさそうだった。
セレネが横で濡れた眼鏡を拭きながら、少しだけ唇を尖らせる。
「私の射線形成も、成功しています」
「セレネも助かった。あの四本目がなければ戻れなかった」
「……はい」
髪の周囲へ、小さな光球が二つ浮いた。
ニアが口を開きかける。
「ニア、言うなよ」
『まだ何も言ってませんけど?』
船員たちの歓声が甲板へ広がる中、レイルは海面を見ながら左腕を軽く振り、残った痺れを確かめた。省魔力で済ませられる状況もあれば、今のように上級魔法を切らなければ守れない場面もある。最大を使わないこと自体が目的ではない。必要な時に、必要なだけ使えることの方が大事だった。