未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
暴潮翼蛇の海域を抜けた船は、その三日後に人間圏のハルツ港へ着いた。港で簡単な帰還報告と負傷確認を済ませ、一行はさらに街道を二日進む。
エルデ村の煙突が見えた時、レイルは自分でも気づかないうちに歩調を速めていた。
ハルツ街道から外れ、見慣れた麦畑の間を抜ける。夏の終わりに近い風が穂を揺らし、その向こうに木柵と低い屋根が並んでいる。
何度帰っても、村は大きくならない。
王都の高塔もない。灰環の市場もない。白環の巨大施設もない。
それでも、門の横にある古い樫の木を見た瞬間、胸の奥で何かが緩んだ。
「村まで、みんなで走る?」
隣のリィナが聞く。
「荷物があるだろ」
「私はない」
「競争じゃないぞ」
「じゃあ先に行く!」
言ったそばからリィナが駆け出す。
脚部噴射は使わない。普通の足で土道を走り、赤栗色の髪を揺らして、村の門へと向かう。
「ただいまあああああっー!」
村の見張りが驚いて顔を上げ、その声につられて何人かが家から出てくる。レイルは荷物もあるから走らないつもりだったが、門の内側に二人の姿を見つけた瞬間、その考えはあっさり消えた。
バルド・アルヴァート。レイルの父。
焦げ茶色の短髪。広い肩と太い腕。作業用の革前掛けは昔と変わらない。無精ひげには少し白いものが混じり、左手親指の古い切創もそのままだ。
隣にエナ。
柔らかな栗色の髪を後ろでまとめ、淡い色のワンピースへ刺繍入りの肩掛けを重ねている。緑色の瞳。細い指には、今も針傷が多い。
レイルは足を止めた。
「……父さん。母さん」
それ以上が出ない。
エナが先に歩いてくる。
昔より小さく見えたのは、自分が大きくなったからだと思った。
両腕が背中へ回る。
「おかえり」
その一言で、言葉を準備していたことが馬鹿らしくなった。
レイルも母の背へ腕を回す。
「……帰ったよ」
「ええ。見れば分かるわ」
笑う声が耳元に近い。けれど抱きしめた身体は記憶より軽く、肩も少し細く感じた。レイルがその違和感を確かめるように顔を離すより先に、エナは口元を手で覆って小さく咳をした。
「母さん?」
「朝から動きすぎただけ。あなたたちが帰るって聞いて、落ち着いて待っていられるわけないでしょう」
「いつから咳してる」
「今の一回で診察を始めないの」
「でも――」
バルドの大きな手が、レイルの左肩へ乗った。
右肩ではない。固定布を見て避けたのだろう。
「報告は明日でいい」
レイルは父を見る。
「父さんが?」
「今日くらいはな」
「何か隠してる?」
「帰って1分で尋問を始めるな」
その言い方はいつも通りだった。
レイルの胸が少しだけ軽くなる。
「お前、背、伸びたな」
「父さんにはまだ負けてる」
「肩は細い」
「魔法使いだから」
「それは、いつもの言い訳だな」
バルドは一度だけ、息子の頭へ手を置いた。
十六歳になったレイルには、もう少し子ども扱いに見える動作だった。
それでも避けなかった。
後ろでセレネたちも村へ入る。
エナはレイルから離れ、全員へ頭を下げた。
「いつも、この子を連れて帰ってくださってありがとうございます」
「いえ、こちらこそレイルには――」
セレネが丁寧に返しかける。
リィナが横から言った。
「おばさん、今回は私が何回も止めました!」
「それは本当にありがとう、リィナちゃん」
「ちょっと待て。俺も自分で止まった場面はあるだろ?」
「あるけど、言わない方が面白いかなって」
「事実を娯楽へ変えるな!」
エナは笑ったが、その笑いの終わりでほんの少しだけ呼吸を整えた。ほんの数息、会話を止めない程度の変化だったから、他の者なら気づかなかったかもしれない。レイルには見えた。
(疲れてるだけか――?)
旅の疲れだと思おうとした途端、最悪の可能性を並べる癖が頭の奥で動きかけた。病気、心肺、感染、魔力経路、栄養――候補が増える前に、レイルは意識して思考を止めた。
(症状も分かってない。勝手に最悪を完成させるな)
明日、本人へきちんと聞き、必要ならミレアにも診てもらう。それでいい。今日はまだ、帰ってきたばかりの日だった。
家へ着くと、玄関脇には昔バルドが作った三本脚の椅子がまだあった。
「それ、まだ置いてたのか」
「使えんからな」
「捨てればいいだろ」
「薪にはなる」
「じゃあ薪にしてない理由は?」
「忘れた」
嘘だと思ったが、それ以上は聞かなかった。
エナが台所から声をかける。
「レイル、水をお願いしていい?」
「井戸?」
「桶はもう汲んであるわ。旅帰りの腕で重い物を持たなくていいから、浄化だけ」
台所の桶へ手をかざす。
「【清水】」
水面に薄い光が広がり、底に沈んだ細かな濁りが一か所へ集まる。
昔は一桶を処理するだけで集中が必要だった。今は呼吸を変えるほどでもない。
「終わった」
「ありがとう。じゃあ次、竈に火」
「【種火】」
小さな火が薪へ移る。
【送風】で炎を整えようとしたところで、エナが手を止めた。
「今日はそこまで」
「まだ何もしてない」
「帰ってきた息子へ全部働かせたら、私が怒られるでしょう」
「誰に?」
エナの視線が台所の入口へ向く。
リィナとセレネが立っていた。
「私です」
「私も!」
二人が同時に答える。
レイルはため息をついた。
「味方がいない」
「いるわよ」
エナが笑う。
「だから休みなさいって言ってるの」
夕方、家の煙突から細い煙が上がった。
遠い国で何度も帰還路を探したレイルは、その煙を窓からしばらく眺めていた。