未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
翌朝、アルヴァート家の裏庭には洗濯物が山になっていた。
旅から戻った人数が多いのだから当然だが、リィナが自分の外套だけでなく訓練着までまとめて持ち込んだせいで、桶が三つに増えている。
「これ、全部今日やるの?」
セレネが袖をまくりながら聞く。
学院制服ではなく旅用の薄いシャツと長裙。淡い金髪は高い位置でまとめられ、実験眼鏡までかけている。
「乾燥まで魔法を使えば午前中には終わる」
レイルは桶の横へしゃがむ。
右肩の固定布は外れているが、まだ重い魔法は禁じられている。今日の作業なら基礎魔法だけで足りる。
「俺が水。セレネが汚れを浮かせる。リィナはすすぎと干す方」
「なんで私は魔法じゃないの?」
「リィナ、流動操作できる?」
「できない」
「じゃあ一番速いだろ?」
「理屈は分かるけど、なんか悔しいんですけど!」
リィナは頬を膨らませながら桶を持った。
赤栗色の髪は朝練後でまだ少し湿っている。袖を肩近くまでまくり、鍛えた前腕で大きな洗濯桶を軽々と移動させた。
「【清水】」
レイルが井戸水の細かな濁りをまとめる。
セレネは指先へ青白い光を集め、衣服の繊維を傷めない程度の弱い流動魔法を通した。
「汚れを剥がします。リィナ、強く絞りすぎないでください。縫い目が伸びます」
「これくらい?」
「それは魔物の首を絞める力です」
「そんなに!?」
「たとえです」
「セレネ、時々たとえが怖いよ」
レイルが笑いかけたところで、水しぶきが顔へ飛んだ。
「笑った」
「リィナが飛ばしたのか」
「事故」
「今、手を振っただろ」
「すすぎの動作」
レイルは指先へ小さな水球を作る。
「反撃する気ですか?」
セレネが静かに聞く。
「顔を洗わせるだけ」
「それを反撃と言うんです」
次の瞬間、セレネの流動魔法が桶の縁を滑り、水がレイルの胸元へ一筋だけ跳ねた。
「セレネ?」
「誤差です」
「今、狙ったよね!」
リィナが笑う。
レイルは二人を見比べ、反撃を諦めた。二対一は分が悪い。
洗い終わった衣服を物干し縄へ並べる頃には風が弱くなっていた。レイルは両手を使わず、負傷していない左掌だけを開く。
「【送風】」
柔らかな風が庭を通る。
強く吹けば布同士が絡む。一本ずつ風路を分け、湿気を逃がす方向だけ揃える。
セレネが途中から光糸で乾きの遅い位置を示し、レイルがそこへ風を回した。
「便利だよねぇ、魔法って」
リィナが素直に言う。
「旅だと水と風魔法はかなり使うな」
「戦う時じゃなくても、魔法って毎日使えるんだね」
「本来そっちの方が多いだろ。火をつける、水をきれいにする、乾かす、灯りを作る」
「レイルが戦う魔法ばっかり増やすから忘れてた」
「俺のせいか?」
「半分くらい」
リィナは乾き始めたシャツを見上げた。
朝の風に、レイルの黒灰色の外套と、自分の旅装と、セレネの薄い上着が並んで揺れている。
ただそれだけの光景なのに、リィナの頭には別の朝が浮かんだ。同じような庭へ朝練を終えて帰り、レイルが水をきれいにして、自分が洗濯物を干す。途中で腹が減ったと文句を言って、二人で朝食を作る。そんな朝が一度ではなく、毎日続く。
(……毎日?)
リィナの手が止まった。
「どうした?」
「何でもない!」
「なんか顔赤いけど」
「朝練したからだって!」
「朝練から一時間以上経ってるんだが」
「うるさい!」
物干し用の布ばさみが一つ飛んできて、レイルは首を傾けるように避けた。その隣では、セレネも同じ洗濯物を見ている。ただし彼女の想像は、研究室を家のどこへ置くか、洗濯と研究の時間をどう分ければ効率がいいかという、妙に具体的な設計へ進んでいた。
レイルが夜通し術式を組み始めた場合、強制的に食事へ連れ出す仕組みが必要ではないか。
そこまで計算してから、セレネは自分の前提へ気づいた。
(なぜ同じ家に住む計算をしているのでしょう、私)
青紫色の瞳が揺れ、淡い金髪の周囲へ小さな光球が一つ浮いた。
「セレネも顔赤くなってるじゃん」
リィナが今度は即座に気づく。
「日差しです」
「日陰だけど」
「魔法の反射です」
「今、光球出たよ」
「観測しないでください!」
二人は互いの顔を見た。何を考えたか全部まで分かるはずもないのに、想像した先が似た方向だったことだけは妙に伝わり、何も知らないレイルだけが首を傾げている。
「二人とも疲れてるなら休む?」
「レイルは黙ってて!」
「今は黙っていてください!」
また同時だった。
ニアが物干し竿の上へ猫型で座り、尻尾を揺らす。
『息ぴったりですねー』
「ニアも黙る!」
「ニアも黙ってください!」
『はいはい。青春、青春』
縁側では、エナが乾いた布を畳んでいた。
柔らかな栗色の髪を肩へ流し、三人のやり取りを見て笑っている。
「レイル」
「何?」
「あなた、一人暮らしは向いてなさそうね」
「なんで急に」
「何となく、よ」
リィナが即座に頷く。
「私もそう思う!」
「同意します」
セレネまで続く。
「なぜ二人とも迷いがないんだ」
エナがまた笑った直後、小さく咳をした。洗濯物を持ったままのレイルは、反射的に振り返る。
「母さん」
「大丈夫。布の埃が入ったものだから」
「昨日も咳してた」
「二回で数えないの」
「二回なら数えられるよ」
エナは困ったように微笑んだ。
「昔から、悪い方へ考える時だけ数えるのが早いのよね」
「悪い方へ決めたわけじゃない。確認したいだけ」
「なら確認は、今日の洗濯が終わってから。ミレアさんにも聞いていいわ。それで納得する?」
「……うん」
レイルはそれ以上追わず、もう一度だけ送風の向きを整えた。庭を抜ける風の中で、家族の服と旅仲間の服が同じ縄に並んで揺れていた。
リィナとセレネはまだ互いに少し気まずそうだったが、次の洗濯物を同時に取ろうとして手が触れ、今度は二人で笑った。
レイルはその光景を見ながら、なぜか胸の奥がくすぐったくなった。
戦場の未来は、何度も想像した。
誰が前へ立つか。誰を逃がすか。何を保持するか。
こういう朝の続きを、自分はほとんど考えたことがなかった。