未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
アルヴァート家の台所に、レイル、リィナ、セレネの三人が並ぶと狭かった。
もともと家族三人用の調理場だ。十六歳まで成長した三人が横へ並び、さらにニアが猫型で棚の上から覗いている。エナは椅子に座り、今日は監督役へ回っていた。
「母さん、本当に座っててよ」
「はいはい。昨日からそればっかりね」
「立つと咳するじゃないか」
「咳したから座ったのよ。順番を逆にしないの」
ミレアにも朝のうちに見てもらった。
今すぐ危険な兆候はない。ただ、疲れだけで片づけず、ハルツの治療院で一度きちんと診てもらった方がいい――それが結論だった。
レイルは治療院までの経路、予約方法、荷車の手配まで書き始め、エナに紙を取り上げられた。
「今日は料理の日なんだから」
「でも――」
「明日のことは、明日の朝に決める。今は夕食を作るの!」
そう言われれば、従うしかない。
「それで、何を作る?」
リィナが聞く。
「煮込みと焼き肉。野菜も」
「肉多めで」
「野菜もだ」
「肉多めの野菜!」
「意味が分からない」
セレネが食材を整える。
「まず湯を作りますか?」
「水からやろう」
レイルは鍋へ井戸水を入れ、【清水】で細かな濁りを取る。竈へ薪を組み、指先に小さな火を灯した。
「【種火】」
ボッ。
火が薪へ移る。
次に【送風】で空気を通す。強くしすぎれば火が暴れるので、薪の下だけへ細く風を送った。
「火力、一定ですね。さすがレイルです」
セレネが感心したように言う。
「戦闘よりよっぽど簡単だ」
「料理してる人に怒られるよ、それ」
リィナが肉を切りながら返す。
包丁を持つ姿は剣士らしく無駄がない――と思った直後、肉の塊が必要以上に均一な厚さで並んだ。
「全部同じ幅だな」
「斬るの得意だから」
「料理へ剣術を持ち込まないでください」
「セレネだって野菜の重さ、いちいち測ってるじゃん」
「煮崩れ時間を揃えるためです」
「二人とも、方向性は違うがどこか似てるぞ」
そう言ったら、二方向から睨まれた。
そのうち、鍋が温まる。
レイルは【温指】で鍋縁の温度を確かめ、火を少し落とした。
「魔法で温度まで分かるの、便利だね」
「【探熱】を弱く使えば、鍋の温度差くらいは見える」
「じゃあ絶対失敗しないじゃん」
リィナの期待へ、エナが笑った。
「そう思うでしょう?」
一時間後。
三人は食卓で鍋を見つめていた。
「薄い」
バルドが言った。
一言だった。
「塩は計量した」
レイルが返す。
「野菜から水が出る分を補正していません」
セレネが即座に分析する。
「肉は美味しいよ!」
リィナは食べている。
「リィナ、その評価は信用できるのか」
「失礼な! 美味しい物はちゃんと分かるよ。量が多いともっと嬉しいだけ!」
エナが小皿へ煮汁を取り、少し塩を足した。
「火加減は上手。煮崩れもしてない。だけど料理は、数字どおりに作ったら必ず同じ味になるわけじゃないの。野菜も肉も、その日の水分が違うからね」
「最後は舌で見る?」
「そう、味見はかならずしなさい。特に誰かに食べてもらうならなおさらよ」
「再現性が低いじゃないか、記録して検証して、毎回同じものがつくれなきゃ――」
「ダメね、料理はそこを楽しむものよ」
レイルには難しい話だった。
ノアなら一晩かけて標準化しそうだと思った。
「ノアに聞けば――」
「やめた方がいいです」
セレネが即答する。
「生活魔法で湯を温めるだけなのに、局所加熱を三重化して器を一枚割りましたから、彼女」
「本人は『熱効率の検証』とかって言ってたよ」
リィナが笑う。
「フィアが『生活能力不足』って記録したら、ノアちょっと嬉しそうだった」
「……親子だな」
レイルが呟くと、ニアが棚の上で尻尾を振った。
『血筋って強いですねー』
食事が進む。
途中、リィナが鍋から具を取りながら何気なく言った。
「レイルって、結婚してもこうやって火加減ずっと測ってそう」
食卓の箸が止まり、何より言った本人のリィナが固まった。セレネの青紫色の瞳が、確かめるようにゆっくり彼女へ向く。
「……何で結婚した後の話になった?」
レイルが聞く。
「違う! たとえば! もし誰かと! 将来ってことだし!」
「誰かと――?」
「そこ拾わないでくんない?!」
リィナの顔が真っ赤になる。
セレネは咳払いし、妙に落ち着いた声で言った。
「仮定としては不自然ではありません。生活魔法の運用は、同居人数によって効率が変わりますから」
「セレネ、助けてるようで話を続けてない?」
「一般論です」
淡い金髪の周囲へ小さな光球が浮く。
説得力がない。
「もし毎日作るなら、栄養配分と食事時刻は決めた方がいいでしょう。レイルは研究を始めると時間を忘れますし」
「……毎日?」
今度はリィナが反応する。
セレネ自身も言葉の意味に気づき、頬が赤くなった。
「今のは、仮定の継続です」
「セレネも同じじゃん!」
「何がです?」
「一緒に住む前提で考えてる!」
「リィナもでしょう!」
二人の視線が同時にレイルへ集まった。戦闘なら退路を三本作れるのに、ここで何を言えば誰も傷つけずに済むのかは一つも浮かばない。レイルはしばらく黙り、安易な言い逃れだけは選ばなかった。
「……毎日なら、同じ物ばかり食べない方がいいと思う」
沈黙。
「そこじゃない!」
「そこではありません!」
また声が揃う。
バルドは何も言わず煮込みを食べ、エナは口元を手で隠して笑っていた。
「母さん、笑ってる?」
「ええ。ちょっとだけ」
「助けてよ」
「嫌よ。こういう時くらい、自分で考えなさい」
レイルは二人を見る。
リィナ。
子どもの頃から隣にいて、朝練へ引っ張り出し、迷っている時には先へ走る。格好悪いところも、逃げたくなる癖も、ほとんど全部知っている。
セレネ。
術式を一緒に組み、研究の未来を同じ机で考えられる。自分の理屈を途中で切らず、間違っていれば正面から直す。
戦場で必要な相手、ではない。
さっき二人が話していたのは、食卓の話だった。
(俺は、こういう未来を考えないようにしてたのかもしれない)
答えを出せない。考えれば、どちらかを傷つける可能性がある。そう思って戦闘や研究ばかりを先へ進めてきたが、それは慎重さではなく、結局のところ保留だった。
「二人とも」
レイルが口を開く。
リィナとセレネが静かになる。
「今すぐ答えを決められるわけじゃない。でも、こういう話を無かったことにはしない。家とか、食事とか、その……一緒に暮らすことも含めて」
言っている自分の方が恥ずかしくなる。
リィナの目が少し丸くなり、セレネは光球を一つ増やした。
「……うん」
リィナが先に答えた。
「期限は?」
セレネはやはりセレネだった。
「今ここで決めるのか?」
「無期限保留を認めないと言っているだけです」
「帰還後の調査が落ち着いたら、ちゃんと時間を取る」
「二人別々に?」
リィナが聞く。
「……それがいいなら」
「いい」
「私も異論ありません」
エナが静かに目を細めた。
息子が誰を選ぶかまで口を挟むつもりはない。ただ、選ぶこと自体から逃げなくなったのだと分かったのかもしれない。
その後、食事が終わる頃になって、エナが立ち上がろうとした。
椅子の背へ手をつき、一度だけ息を止める。
「母さん?」
「大丈夫。ちょっと立ちくらみ」
レイルがすぐ横へ行く。
触れた腕はやはり細い。
「明日、一緒にハルツへ行こう」
「そんな大げさよ、私は大丈夫だから」
「診てもらって何もなければ、それで終わる」
自分でも意識して言葉を選んだ。最悪の想定を並べず、病名を勝手に作らず、今分かっていることだけを確かめる。
「俺も一緒に行く」とバルドもいう。
エナは少し困った顔をした後、頷いた。
「しょうがないわね。分かったわ。面倒をかけるけど、じゃあお願い」
その返事だけで、レイルの胸にあった力が少し抜けた。
今はまだ、それで十分だった。