未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
ハルツの治療院は、朝の診療が始まる前から薬草を煮出す匂いで満ちていた。
白壁の廊下を歩くエナの背中は、昔と同じようにまっすぐだった。淡い栗色の髪を後ろでまとめ、刺繍の入った薄手の肩掛けを羽織っている。見慣れた母の姿なのに、レイルは歩幅を合わせるたび、肩が以前より少し細くなったことばかり気にしてしまう。
隣を歩くバルドは何も言わない。太い指を腰帯へ掛け、前だけを見ている。その沈黙が、レイルには余計に重かった。
「もう。そんな顔しないの」
エナが振り返った。
「どんな顔?」
「まるで私が今から処刑されるみたいな顔」
「してない」
「してるわよ。バルド、してるわよね?」
「ああ、確かにしてるな」
「父さんまで!」
「母さんの診察で、お前が倒れそうな顔をしてどうする。母さんを不安にさせてはいかん」
返す言葉がなく、レイルは口を閉じた。
診察にはミレアも同席した。診察卓の向こうに座った治療師は、エナの胸と背へ細い生命光を当て、呼吸、脈、魔力循環を順番に確認していく。レイルは邪魔にならない位置まで下がったつもりだったが、気づけば術式の明滅を一つずつ数えていた。
(呼吸周期は乱れていない。脈も急ではない。魔力循環も――いや、戻りが少し遅い?)
治療師が光を消す。
「急を要する異常は見つかりませんでした。ただし、疲労だけで片づけるのも早いと思います。呼吸と循環の回復が少し遅い。咳が続く、息切れが増える、食欲が落ちる、体重がさらに減る。そのどれかがあれば、王都の専門院でさらに詳しく調べましょう」
「治療魔法で改善できる範囲は?」
レイルが問うと、治療師はすぐには答えなかった。
「今、治すべき病名が決まっていません。症状を抑えることはできます。ただ、原因が分からない状態で強い生命魔法を繰り返せば、身体が出している兆候まで消してしまうことがあります」
「聖級以上なら?」
「レイル」
ミレアが名前を呼んだ。
眠そうに見える紫の瞳が、今日はまっすぐこちらを見ている。
「等級を上げても、分からないものが分かるわけではありません。強い魔法は、強く触ります。原因が不明なら、それだけ慎重に使わなければいけません」
「……分かってる、んだが」
「分かっている人は、聖級ならなどと最初に聞きません」
痛いところを正確に刺され、レイルは視線を逸らした。
エナが小さく笑った。その直後に咳が一つ出て、レイルの肩が反射的に動く。立ち上がりかけた息子を、エナは手のひらで制した。
「ほら。また全部、自分の仕事にしようとしてる」
「水くらいなら」
「いいわね。水は欲しいわ」
言われて、レイルは卓上の杯へ【清水】を使う。濁りも匂いもない水面がわずかに揺れた。
杯を受け取ったエナは一口飲み、しばらく手の中で温度を確かめるように持っていた。
「心配してくれるのは嬉しい。でも、私の身体のこと全部、あなた一人の仕事にしないで。先生もいる。ミレアさんもいる。お父さんもいる。私自身もいるでしょう?」
「……うん」
「それに、まだ病気とも決まってないのよ。あなた、今から私のお葬式まで準備してない?」
「――そこまでは考えてない」
「今、間があったわね」
「最悪条件を一応――」
「考えたのね」
「……少し」
バルドが額へ手を当てた。
「まったく。相変わらずお前、そこは変わらんな」
診察室に小さな笑いが戻った。
ただ、レイルだけは笑いながら、胸の奥に残った言葉を消せなかった。
(もし、いつか治せないものが来たら)
【未完】は、以前よりずっと多くのものへ触れられるようになった。意識、治癒、術式、完成前の行為。いつかさらに先へ進めば、死という最後の工程へ手を掛ける日が来るかもしれない。
(死亡を完成させなければ――)
考えた瞬間、自分でその続きを止めた。
(それは、治すことじゃない)
止めることと戻すことは違う。
今日のエナに必要なのは、存在しない病名へ先回りして戦うことではなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
診察を終えて村へ戻る途中、リィナとセレネが街道脇の木陰で待っていた。
リィナは赤栗色の髪を高く結び、腰の【継刃】へ手を置いている。セレネは淡い金髪を肩の後ろへ流し、細縁眼鏡の奥からレイルの顔を一度見ただけで、結果が重篤ではなかったことを察したらしい。
「エナおばさん、どうだった?」
「すぐ治療が必要な異常はないようだ。原因もまだ分からない。経過観察をする」
レイルはそこまでを一息で言った。
「それ以上は?」
セレネが静かに尋ねる。
「……勝手に病名を決めない。強い魔法を使えば何とかなるとも決めてはいけないと言われた」
「それでいいと思います」
リィナはレイルの横へ来ると、肩を軽く叩いた。
「じゃあ今日は、それ以上考えるの終わり。帰ったらご飯食べよう」
「考えるのを止めるのは難しい」
「知ってる。だから食べながらにしよっか」
「それ、止めてないよね?」
「口に物が入ってれば、少しは静かでしょ」
「俺を何だと思ってるんだ」
「考えすぎる幼なじみ」
セレネが隣で小さく息を漏らした。
「合理性はあります。咀嚼中の発話量は減少します」
「セレネまで」
二人に挟まれて歩き出した時、レイルはようやく、自分の呼吸が朝より深くなっていることに気づいた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その日の夕方、今度はノアがミレアに捕まった。
「横になってください」
「なぜです?」
「血素量が下がっています。最近、補給を先延ばしにしているでしょう」
「研究上の優先順位を整理した結果です」
「貧血です」
「もう少し専門的に否定してください」
「慢性的な血素不足。集中力低下。末梢冷感。指先震顫。今夜の術式研究は禁止」
ノアの赤紫の瞳がわずかに輝いた。
「あぁ……いいですね。そこまで具体的だと反論し甲斐があります」
「もう。喜ばないでください」
横で記録していたフィアが即座に止める。
アルドは二人を見比べ、ためらいなく腕を差し出した。
「必要なら俺の血を使え。前にも問題なかった」
ノアの顔が一瞬だけ固まった。
「その言い方を軽々しくしないでください」
「なぜだ?」
「提供は申請と確認を挟むものです。貴方が勝手に自分を資材扱いすると、こちらが困ります」
フィアが記録板から目を上げる。
「訂正。困る、では不足。ノアの心拍上昇を確認」
「フィア」
「はい」
「その記録を削除してください」
「拒否します」
アルドだけが、ぽかんと、何をそんなに揉めているのか分からない顔をしていた。