未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
母を診察に連れて行った翌朝、レイルはガルドの工房へ向かった。
エルデ村の南端、黒い煙突と厚い石壁を持つ工房は、子どもの頃より小さく見えた。建物が縮んだわけではない。自分の背が伸びたのだと分かっていても、入口の赤線を見た瞬間だけ、胸の奥が六歳の頃へ戻る。
あの日から何度も踏み越えないと決めた線だった。
中では職人たちの槌音が絶え間なく響いている。
カァン、カァン、と一定の間隔で続いた音が止まり、ガルドが炉の向こうから顔を出した。太い腕、焦げ茶の前掛け、灰の混じった髭。年齢の分だけ目尻の皺は増えているが、睨むような目つきは変わらない。
「来たか」
「うん」
「入れ。赤線はもう客用だからな」
その一言の方が、許可より重かった。
レイルは一度足元を見てから線を越える。
奥の作業台には息子・ドルガがいた。父親より細身だが、肩と前腕は鍛冶仕事で厚くなっている。短く切った黒褐色の髪には金属粉が付着し、灰色の目がレイルの持つ革鞄へ向いた。
「お前――それ、金か」
「帳簿と、残ってる分の支払いを......」
「見せろ」
遠慮も前置きもない。
その方がありがたかった。
リオンに整えてもらった清算書を広げる。当時の材料費、納期遅延による違約、工房が負担した代替品、すでに返済済みの金額、残額。
大陸記第一巻の印税が入った時点で、レイルには全額を支払えるだけの余裕があった。村が正式に受け取ると確認した共同設備の未清算分は、同じ印税から村役場へ別口で支払いを済ませている。受け取りを断られた項目まで勝手に金額を積み増すことはしなかった。
ドルガは一行ずつ追い、最後に指で紙を叩いた。
「ここ。村の共同修繕費まで入ってるじゃねえか」
「俺の事故の後、工房の信用が落ちて、共同の仕事を別の町へ回した分も補填に必要と考えたから」
「それは村の仕事だ。お前一人の損害にすんな」
「でも原因は――」
「原因と請求先は別に考えなくちゃならねぇ」
ガルドが炉の火を見ながら言った。
「そこまで持つなら、逆に受け取れん。残ってる分だけでいい」
レイルは反論しかけ、やめた。
誰かが受け取らないと言った金まで押しつけるのは、賠償ではない。
「分かった」
必要額だけを卓上へ置く。
ドルガは袋を持ち上げ、重さを確かめた。
「よし。これで金の話は終わりだ」
「俺は……これで許してもらえるとは思ってない」
ドルガの眉がわずかに動いた。
「お前さ、そういうことばっか書いてたな」
「え? 今、なんて」
「――いや、何でもねえ」
作業台の反対側で、工具箱を開いていたロッテが顔を上げた。
銅赤色の短い髪。額へ押し上げた保護眼鏡。灰緑色の瞳がドルガとレイルを交互に見る。
彼女はレイルの破損した【環刃短杖】を持ってきただけで、ドルガとは今日がほぼ初対面だった。
「今、“書いてた”って言った?」
「言ってねえわ!」
「私にもそう聞こえたんだけど」
「初対面だろ、細かく人の会話を拾うな」
「聞こえる音量で言ったのはそっち。だし職人は細かいことに気づけてなんぼでしょうが?」
ドルガのこめかみに筋が浮いた。
ガルドは面白そうに鼻を鳴らした。
「お前がロッテか。レイルの壊れた杖を何度も直してるっていう。話は聞いてるぜ」
「正確には、壊れる前提で直せる形にしてます」
「同じだろ」
「違います」
「違わねえわ」
今度はドルガとロッテが同時に言った。
二人は一瞬だけ互いを見る。
「……そこは同意するんだ」
レイルが言うと、二人から同じ速度で睨まれた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
昔完成できなかった剣の依頼主は、今も近隣で暮らしていた。ただし、当時と同じ剣を欲しがってはいなかった。
「今さら昔と同じ長剣を渡されてもな。息子が使うなら、もう少し短くて丈夫な方がいいんだ」
依頼主の言葉を、ドルガは黙って聞いた。
必要なのは、過去をそのまま復元することではない。
今の持ち主に必要な一本を作ることだった。
材料には、エルデ北西の旧採掘坑で採れる【鳴鉄鉱】を使うことになった。叩いた時に内部の密度差が音へ出やすく、昔からこの地方の実用剣に使われてきた鉱石だという。
「在庫は?」
「買えばある」
ドルガが答える。
「じゃあ買う」
「ちょっと待て」
「何?」
「……いや――」
ドルガが言葉を濁した。
レイルは少し考え、首を振る。
「やっぱり取りに行く」
「今、買うって言っただろ」
「金で済ませる部分は金で済ませた。こっちは俺が働きたいんだ」
「自己満足じゃねえのか」
「たぶん、そういう部分もある」
そこを否定しなかった。
「だから、ドルガが嫌ならやめる」
ドルガは長く息を吐いた。
「そうか……だが、行くなら俺も行く。石を見分けられねえ奴だけで採っても仕方ねえだろ?魔導士のお前にゃ、鉄や石の見分けなんてつかねえだろうし」
リィナがすぐ手を上げる。
「私も行く!ってか行きたいし!!」
「今回はお前に用はない、黙って村で飯でもくってろ」
「なんで!?」
「こいつが壊した仕事の材料だ。こいつと俺で取るのがスジってもんだろ」
リィナの頬が明らかに膨らんだ。
セレネが横から肩へ手を置く。
「リィナ。今回は見送った方がいいです」
「セレネまで」
「二人でしっかり話す必要があります」
「……分かってるけどさ、けどさー!」
リィナはふくれっ面でレイルを見た。
「もう。絶対無茶しないでよね?」
「ドルガがいる」
「その返事、安心材料になってない」
「俺も同じこと思った」
ドルガが言う。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
大陸継路組合のエルデ出張窓口で、採取依頼を登録する。
受付員は依頼票の報酬欄を二度見した。
「報酬、0銅貨で間違いありませんか? 無報酬ということですが」
「はい、間違いありません」
「依頼人はドルガ・バルグさん?」
「俺は依頼してねえ」
「じゃあ俺が俺に依頼して、ドルガを同行者ということに――」
「ああもう!!ややこしくすんな!」
受付員が笑いを堪えながら書き直す。
「工房用素材採取。依頼主ガルド工房、報酬0銅貨、採取物は工房へ帰属。これでいいですか?」
「はい。それで大丈夫です」
ドルガは不満そうだったが、署名した。
続けてレイルも署名する。
「なんでわざわざ組合通すんだ?」
「崩落、魔物、負傷、行方不明。何かあった時に誰も行き先を知らない方が危険だから。幼いころにそれで失敗した」
「うーん、昔より余計面倒臭くなったな、お前」
「より安全になったと言ってほしい」
「まだ言わねえぞ」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夜、宿へ戻ると、ノアが小さな採血器を前にアルドと向かい合っていた。
フィアが横で記録板を構えている。
「今回の採血も、適正量だけです」
「前より少なくってないか?」
「今日は80ミリリットルで足ります」
「もう少し取れるぞ、必要なだけたくさん採るがいい」
「私の許可なく、勝手に増やさないでください」
「顔色がまだ悪いじゃないか」
「だから追加を勧めるような言い方をしないでください!」
フィアが淡々と書く。
「ノア。口元、上向き」
「ただの生理反応です」
「訂正。嬉しそうです」
「その表現は不採用です」
採血を終え、ノアは保存容器から規定量だけ摂取した。
数分後、赤紫の瞳が深くなり、淡い金髪の内側へ夜紫色がわずかに差す。
ノアは立ち上がり、アルドの腕を取った。
「動かさないでください」
「もう止血してる」
「私が確認します。腕を出す。座る。反論はその後です」
「命令が増えてないか?」
「増やしました」
フィアが記録板へ書き込む。
「吸血後、支配傾向上昇」
「フィアもお黙りなさい」
「却下」
ノアは目を細めた。
「……その即答、もう少し厳しくしても構いませんよ?」
「今、喜ばないでください?」
アルドは二人を見ながら、結局言われた通り座っていた。