未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
午後、旧坑道のさらに奥へ入ったところで、ニアの猫耳が鋭く立った。
『前方、魔物反応。二――訂正、三です。地中移動中』
レイルが足を止めるより先に、床の砂利が盛り上がった。
ズズッ――。
「下がれ!」
ドルガが採掘袋を投げ捨てる。
次の瞬間、黒い岩肌を割って、灰褐色の甲殻を持つ獣が飛び出した。熊ほどの胴に、岩を噛み砕くための横広い顎。前脚の爪は採掘用の鑿のように尖っている。
その魔物は【裂顎穴熊】。
一体目がレイルの胸へ飛び込んだ。
ガギィンッ!
短杖形態のセプテム・ロッドで牙の根元を受ける。真正面から止めない。朝練で叩き込まれた通り、腰を引き、右足を半歩だけ外へ滑らせる。
牙が杖骨を擦り、火花が散った。
(重い。でも、リィナの打ち込みより軌道は素直だ)
左足裏へ風圧を通す。
バシュッ!
身体が斜め後ろへ抜け、穴熊の頭が空を切る。
「まったく、魔法使いの動きじゃねえな!」
ドルガが叫びながら採掘槌を振った。
ゴンッ!
甲殻の継ぎ目へ鈍い音が入り、穴熊が横へよろめく。
「朝練を何年もやらされてる!」
「リィナとだな!昔、村で見たことあるわ何度も」
「そうだ!」
「お前も……大変だな!」
「それは否定できない!」
二体目が天井近くの壁から落ちる。
レイルは杖を向けたが、中級風魔法を撃つ前に止めた。
足元には細かな砕石。右壁には古い支柱。穴熊は爪を岩へ食い込ませて跳ぶ。
(全部吹き飛ばす必要はない、むしろ崩落の危険がある)
「ドルガ、右へ二歩動け!」
「理由はなんだよ!」
「そこだけ床が低い!」
「先に言え!」
ドルガが飛ぶ。
レイルは【硬土】を薄く一枚だけ床へ走らせ、穴熊が着地する場所をわずかに傾けた。
ドッ!
爪が滑る。
そこへドルガの槌。
ガンッ!
顎の付け根へ入った。三体目は地中からレイルの背後を狙う。
『後方だ!』
振り返る時間はない。
レイルは杖尻を地面へ突き、短く【送風】を下へ叩き込んだ。
砂塵が円を描いて浮く。
地面の一点だけ、砂の動きが逆になった。
「そこだっ!」
ドルガが楔を投げる。
次の瞬間、穴熊の頭が地面から出た。
楔が甲殻の隙間へ挟まり、突進の向きがずれる。
レイルは一歩だけ近づき、杖の三日月状の残存刃を顎の外側へ当てた。
ザッ――!
斬るのではなく、押す。
ドルガの槌が反対側から入る。
ゴォンッ!
穴熊は横倒しになり、そのまま坑道奥へ逃げた。
残り二体も追わない。
彼らが巣を守っていただけなら、素材採取のために殺す理由はなかった。
荒い息を整えながら、ドルガが槌を肩へ担ぐ。
「……お前、本当に魔法使いかよ? 村にいる元剣士の爺さんより強そうじゃねえか」
「資格上はそうなってるが、自分で魔法使いだと言ったことはない」
「剣士でもねえ」
「それでも資格上は中級なんだけどな」
「面倒臭い奴だな」
「これで三回目だ」
今度は二人とも笑った。
坑道の暗がりで、初めて何の含みもなく笑い声が重なった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
目的の鳴鉄鉱は、さらに一時間ほど探索した洞窟の奥で見つかった。
ドルガが一つずつ音を確かめ、レイルが岩盤の負荷と魔力流を読む。二人で選んだ鉱石は、持ち帰れる量より少しだけ多かった。
「これなら作れるぞ」
ドルガが言った。
「昔の剣を?」
「違う。今の剣をだ」
その答えを、レイルは黙って受け取った。
帰り道、坑道の出口から夕方の光が差し始めた頃、ドルガが背負い袋から小さな鉱石片を一つ取り出した。
「ほら」
放られた石をレイルが受け取る。
「何?」
「余りだよ」
「工房に要るんじゃない?」
「要らん」
「報酬ってこと?」
「0銅貨だっつったろ」
「じゃあ帳簿上は?」
「うるせえ、なら返せ」
レイルは反射的に握り込んだ。
「いや、もらうわ」
「なら聞くんじゃねえよ、めんどくせえな」
そのまま数歩歩く。
ドルガがふいに足を止めた。
「あのさ――大陸記」
「うん」
「俺、読んだんだ」
レイルも止まった。
坑道出口の光が、ドルガの横顔だけを橙色に照らしている。
「やっぱり、か」
「最初は確認するためだった。お前が外でまた同じことやってねえか。誰かの仕事壊して、謝ったつもりで逃げてねえか、をな」
レイルは何も言わない。
「だが、お前は失敗したことまで正確に書いてた。王核大陸で道間違えたとか、魔法止め損ねたとか、他人に助けられたとか。格好いいとこだけ書けばもっと売れるだろうに、そうしなかっただろ?」
「大陸記は事実を書く本だから」
「そういうところだよ」
ドルガが息を吐いた。
「正直、お前が村からいなくなっても、ずっと腹は立ってた。親父が許してるからって、俺まで同じ顔する必要はねえと思ってた。剣が壊れたことも、客が離れたことも、なかったことにはならねえだろ?」
「うん」
「でも、お前が逃げてねえのも分かったんだ。村に金返して、学院でも旅先でも壊したもん持って帰って、直せない時は直せないって書いてるからな」
ドルガはレイルの手の中の鉱石を見る。
「今日、一緒に仕事して、それで最後にしようと思った」
レイルの喉が少し詰まる。
「最後って?」
「何回も言わせんな、バカが」
ドルガは眉を寄せた。
「昔のことは許す。忘れはしねえけどな」
坑道の外で風が鳴った。
レイルは返事を急がなかった。短く言えば軽くなりそうで、長く言えば言い訳になる気がした。
「……ありがとう。忘れなくていい。俺も忘れない。でも、許してくれたことは、ちゃんと覚えておく」
「――なんか、お前に礼言われると腹立つな」
「どうすればいい?」
「次から装備は、壊す前に持ってこい」
「努力する」
「そこは約束しろ」
「壊れる前に分かればそうしてる。なら装備と武器の管理帳簿をきちんと記述して――」
「ああもう、うるせえ、お前やっぱ面倒臭ええええええええええっ!」
夕暮れの坑道前に、ドルガの声が響いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
工房へ戻ると、ロッテが作業棚の前で何かを持っていた。
煤で汚れ、角が擦れた本。
表紙には【王核大陸冒険記】。
「これ、レイルの本だよね?」
ドルガの顔が固まった。
「部品帳探してたら出てきた」
「このアマ――、勝手に棚漁るな」
「ガルドさんに場所聞いたんだ。ずいぶん読み込んでるじゃん」
「資料だよ」
「鉱山資料?」
「そうだ」
ロッテが折り目のついたページを開く。
「ここ、レイルが魔物から子ども庇って杖壊したところだけど」
「その次に採掘場の記述がある」
「へえ」とロッテがにやつく。
「うぜぇ。その顔やめろ」
レイルは本の擦れた背表紙を見た。
何度も開かれた跡がある。
胸の奥が妙にくすぐったくなった。
「ドルガ」
「何も言うな」
「まだ何も」
「てめえ、言う顔してんだよ!」
ロッテが吹き出す。
「ロッテ、お前今日から排圧弁の検品量三倍な」
「照れ隠しで仕事増やすな!」
初対面に近かった二人の距離が、少しだけ縮んだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夜、フィアは村への補償帳簿を整理していた。
机の上には領収票、旧損害記録、リオンからの確認書。食事の時間を過ぎても筆を置かない。
扉が開き、アルドが皿を二つ持って入ってくる。
「食ってないだろ」
「作業中です」
「作業中でも食える」
「合理性があります」
アルドは皿を置いた。
「ノアにはすぐ休めって言うのに、自分のことは雑だな」
フィアの筆が止まる。
「……その指摘は不要です」
「合ってるのか?」
「記録対象外です」
耳の先が少し赤い。
そこへノアが顔を出した。
「私の分は?」
「あるぞ」
アルドがもう一枚の皿を持ち上げる。
ノアの表情が、ほんのわずかに明るくなった。
「……ありますか」
フィアが顔を上げる。
「声色変化を確認」
「フィア」
「はい」
「食事中まで記録しないでください」
「ではノアもアルドの腕を食事中に見ないでください」
「見ていません」
アルドが自分の右腕を見る。
「どこか悪いのか?」
二人から同時に、深いため息が返ってきた。