未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
翌朝、クラリスは白環壁を壊さなかった。
代わりに、オルンへ何度も質問した。
新しい台所はどちらへ向けたいか。冬の風はどちらから来るか。妻が戻った時、昔の工房が目に入っても構わないか。焼けた梁は残したいのか、ただ捨てる決心がつかないだけなのか。
質問のたびに、オルンの返事は変わった。
最初は「何でもいい」と答えていた男が、やがて窓は南へ、作業台は工房側へ、娘が削った柱の印は残したいと具体的に言い始める。
クラリスはその全部を聞いた。
「正環修復を使わないんですね」
セレネが白壁の荷重線を記録しながら言った。
クラリスは頷く。
「ええ――。【正環修復】は、記録された標準形へ戻す術です。今回は、戻す先そのものが依頼者の希望と一致していませんから」
「なら、術式としては何を行うのです?」
「固定と分離だけです。形は職人へ任せます」
その答えを聞いたオルンが、少し離れたところで笑った。
「白環の聖女様が、魔法を使わず大工に任せるのか」
「私は聖女ではありません。それに、使いますよ。使わないのは“全部を私が決める魔法”です」
クラリスは壁へ掌を当てた。
白い環状文様が薄く光る。以前なら、この光が家全体へ走り、失われた梁も窓も床板も記録通りに戻しただろう。
今回は違った。
壁の内部だけを読み、荷重が集中している三箇所へ細い光線を引く。
「レイル。左の柱を一時保持できますか」
「一件だけなら」
「セレネ、右側の新材へ荷重を逃がさない経路を」
「二本に分けます。一本では床が沈みます」
「リィナ、倒す方向を空けてください」
「人は全部外に出した。工房側も空いてるよ」
レイルは【未完】を一件だけ伸ばした。白環壁が支えていた古い梁の崩落を完成直前で止める。右目へ閉じ切らない輪が浮かび、外套の背後で【七環外導架】の欠けた環が低く回った。
セレネの地質光線が床下へ走り、クラリスが白壁の接合だけを切る。
ミシ……ッ。
壁は家へ戻らなかった。
白い石材の塊として、ゆっくり工房側へ傾く。
「今だよ!」
リィナが縄を引き、オルンと村の大工二人が支柱を外す。
ドンッ!
白壁が土の上へ倒れ、乾いた粉が舞った。レイルは保持していた梁を、仮支柱へ荷重が移ったことを確認してから完成させる。
何かが元通りになったわけではない。
それでも家は立っていた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
午後には、倒した白環石材が新しい台所の基礎へ再利用されていた。
オルンは最初、白い石を全部捨てるつもりだったらしい。だが村の大工が「雨には強い」と言い、本人が「なら足元に使え」と決めた。
クラリスは袖をまくり、泥のついた石を一つずつ運んでいる。
聖職者用の白い手袋はすでに外していた。
「意外だ」
レイルが隣の石を持ち上げる。
「何がですか」
「もっと嫌がるかと思ってた。白環の石を別の形に使うの」
「以前の私なら、壊した時点で失敗と判断したでしょう」
クラリスは石を置き、手についた白い粉を払った。
「ですが、昨日の家へ戻すために使われた石が、明日の家を支えるなら、それを“間違った利用”と呼ぶ理由を私は持っていません」
「変わったね」
「褒めていますか」
「たぶん」
「“たぶん”を外してください」
思わず笑うと、クラリスもわずかに口元を緩めた。
その向こうでは、リィナが窓枠を運びながらこちらを見ている。
「レイルー!」
「何?」
「そっち終わったらこっち来てよね! 大きいの一人じゃ持ちにくい!」
「今行く」
レイルが石を置くと、クラリスの視線がリィナへ向いた。
「呼ばれていますよ」
「うん」
「かなり強めに」
「まぁ、いつものことだから」
「……あれを“いつものこと”として受け取れる関係は、少し羨ましいですね」
予想していなかった言葉に足が止まった。
クラリスはそれ以上説明せず、次の石を持ち上げる。
「早く行ってください。リィナの眉間の皺が一段増えました」
「見てるじゃん」
「観察です」
レイルは窓枠の方へ走った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夕方、新しい台所の輪郭が地面へ描かれた。
完成はまだ先だ。梁も壁もなく、基礎石しかない。
オルンはその中央へ立ち、南側に開ける予定の窓を眺めていた。
「妻に手紙を書く」
誰にともなく言った。
「戻ってこいとは書かん。新しい台所を作るってだけ書く」
クラリスが頷く。
「それで十分だと思います」
「聖女様が“正しい”って言わないのか」
「言いません。あなたの手紙ですから」
オルンは鼻で笑い、工房へ戻った。
クラリスは未完成の基礎をしばらく見ていた。
「レイル」
「うん」
「正しい形がなくなったわけではありません。崩れれば人が死ぬ建物には、守るべき構造があります。治療にも、止血にも、急ぐべき正解はあります」
「そうだね」
「でも、それと“どんな家で生きたいか”を同じ種類の正解にしてはいけなかった。私は、そこを一緒にしていました」
クラリスは泥のついた手を見る。
「直さないことを選んだのに、昨日より少しだけ前へ進んだ気がします。……妙ですね」
「未完成だからじゃない?」
「あなたに言われると、少し腹が立ちます」
「なんで?」
「得意分野の顔をしているからです」
今度は、クラリスの方が先に笑った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
同じ日の夕刻。レイルたちから北へ200キロメートル以上離れた旧街道で、ユノ・アステルは崩れかけた転送中継所の床へ座り込んでいた。
藍色の髪は旅埃で少しくすみ、膝の上には帰還不能者の名簿が三冊。向かいでは、長身のカイン・ヴェルドが窓のない壁を背にして周囲を警戒している。喉の古傷はいつも通り布の襟に半分隠れ、腰には長剣と小さな石板が下がっていた。
「はぁ、だる……帰れる道を探してるはずなのに、最近見つかるの、帰れなかった人の記録ばっかり。精神への攻撃として完成度高すぎない?まったくさぁまじブルー......」
カインが石板へ白墨を走らせる。
【休むか?】
「休んだら記録が勝手に読めるなら休む。読めないならやるしかないっしょ」
ユノは悪態をつきながら一冊を開き直した。
途中で指が止まる。
「……カイン。これ見て」
三十年前の中継所日誌。日付は同じ一日が七回並んでいる。それだけなら書き間違いにも見える。だが筆跡は少しずつ乱れ、最後の一行では書き手自身がこう残していた。
【今日がまた来た。だが、私は昨日より疲れている】
カインが隣へしゃがみ込む。
【同じ日?】
「たぶん違う。日だけ戻されて、人間は戻ってない」
ユノはページを閉じなかった。
「偽東京の次は昨日の押し売り? ほんと白いの、他人の人生を勝手に編集するの好きだよねー。迷惑系Youtuberかよ」
カインは返事を書かず、入口側へ立つ位置を変えた。
ユノはその背中を見てから、日誌の頁番号を控える。
「持ってくよ。帰還の手掛かりじゃなくても、放っておいたら誰かが同じ目に遭うしね」