未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
修復後に灰石村を出て三日目、街道沿いの小さな施療院でミレア・ノクスが倒れた。
正確には、倒れる前にリィナとアルドが両側から腕を掴み、椅子へ座らせた。
銀灰色の長い髪は後ろで緩く束ねられ、紫の瞳の下にはいつもより濃い隈がある。黒白の聖衣は清潔だったが、袖口だけは薬草汁で薄く染まっていた。
「もう離してください。歩けます」
「歩けるかじゃない!」
「三十人診た後に、すぐ次の村まで歩こうとする人は止める」
アルドとリィナが同時に言う。
ミレアは二人を見比べたあと、低い声でレイルを呼んだ。
「レイル。二人を止めてください」
「今回は二人が正しい」
「三対一ですか」
「セレネもいるから四対一だな」
「私はまだ何も言っていません」
セレネが眼鏡を押し上げる。
「ですが、直近二晩の睡眠時間は不足しています。賛成します」
「ふふ、私も入れば五対一ですね」
ノアが楽しそうに加わった。
「あなたは私側では?」
「いいえ。研究対象が限界を超える前に休ませるのは合理的です」
「私を研究対象にしないでください」
「いいですね、もっと否定してください」
ミレアが立とうとする。
その膝が一瞬だけ揺れた。
本人より先に、ノアの笑みが消える。
「……今のは駄目です」
「ノアにまで言われたくありません」
「私が言うと説得力があるでしょう。自分を患者と認めない者の悪い例として」
「自覚があるなら改善してください」
「今は貴女の話ですから」
ミレアは返事をせず、椅子の背へ身体を預けた。
施療院の奥では、灰石村から運ばれた白環被害者が二人眠っている。片方は意識が断続的に途切れる症状、もう片方は白環残滓に触れるたび眠れなくなる症状だった。
ミレアは三日間、二人の睡眠周期を交互に見ていた。
「私が寝た間に、意識固定が外れたらどうしますか」
言葉は静かだった。
そこにいた全員が、ようやく彼女が休まない理由へ触れた。
「【不眠聖域】は共有できます」
セレネが術式紙を指す。
「現在の構造でも、一人へ負荷を集中させない仕組みです。問題はミレアが中核監視まで自分で持っていることです」
「監視を外せば、変化の初動が遅れます」
「なら、外さなくていい」
レイルは机の端へ並べられた術式札を見た。
「監視だけ分ける。身体反応はニア、術式変動はセレネ、時間と交代記録はフィア。危険値に入ったらミレアを起こす」
「私は眠っているのに?」
「眠ってていい。判断が必要になった時だけ起きればいい」
「その間に誰かが間違えたら」
ミレアの声が少し硬くなる。
「私が見ていれば防げた間違いだったら、どうするのです」
レイルは言いかけて、止めた。
簡単に「大丈夫」と言える話ではない。
代わりにアルドが口を開く。
「間違えた者が責任を取る。ミレア一人の責任にはしない」
「でも、患者は一人です」
「守る側は一人じゃない」
フィアが記録板から顔を上げた。
「訂正します。現状、患者二人。監視可能者六人。ミレアが全項目を独占する合理的理由はありません」
「言い方が冷たいですね」
「感情的な理由なら記録できます。“他人へ任せるのが怖い”でよろしいですか」
ミレアの紫の瞳がフィアを見た。
数秒後、観念したように息を吐く。
「……それでお願いします」
フィアの筆が動く。
「記録しました」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夜、施療院の灯りは半分だけ落とされた。
ミレアは隣室の簡易寝台に横になっている。眠る前に三度起き上がり、そのたびリィナに戻された。
四度目はなかった。
レイルは患者二人の間に置いた椅子へ座り、【万式魔導環】の小型表示を見ていた。ニアは黒銀猫型で窓枠へ座り、呼吸と魔力波形だけを静かに追っている。
『第一患者、呼吸安定。第二患者、覚醒兆候ナシ』
セレネが術式線の端を確認する。
「共有域の揺れ、許容内です」
「フィア」
「交代まで四十分。予定変更なしです」
レイルは肩の力を抜いた。
何も起きない時間が続く。
それ自体が、今夜の成功だった。
隣室から小さな物音がして、全員が一斉に顔を上げる。
リィナがそっと戸を開け、すぐ戻ってきた。
「寝返り」
「起きてない?」
「起きてない。ちゃんと寝てる」
その報告に、なぜか全員が少し笑った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
朝、ミレアは六時間眠った。
起きて最初に患者のところへ来た彼女へ、フィアが夜間記録を渡す。
「異常二件。いずれも基準内で自然復帰。ミレア起床条件には到達していません」
「……二件あったのですね」
「はい」
「起こされませんでした」
「起こす必要がありませんでしたから」
ミレアは二人の患者を診た。呼吸を確認し、手首へ指を当て、瞼の反応を見る。
やがて、寝台から手を離す。
「問題ありません」
自分へ言い聞かせるような声だった。
レイルが壁へ寄りかかったまま笑う。
「眠ってても治療は続いた」
「私が治療していない時間も、ですね」
「うん」
ミレアは少しだけ悔しそうに見えた。
「……思ったより腹が立ちます」
「なんで?」
「私がいなくても回ったことにです」
「それ、俺も分かるけど」
「共感しないでください。あなたは特に直すべき側です。あなたに言うとなんだか自己嫌悪になりますが」
すぐに返され、レイルは黙った。
ミレアはようやく笑う。
「ですが、次も眠ります。必要なら起こしてください」
「了解」
「そしてレイル」
「何?」
「あなたも今夜は六時間以上寝てください」
「話が飛んでない?」
「飛んでいません。患者候補を減らしているだけのことです」
その言葉に、逃げ道はなかった。