未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
次の目的地に向かう道中、アルドの実家が近いことが分かり、一行は中継地点としてアルド宅へと向かうことにした。
そして、クロイツ家の領地へ入った途端、アルドの背筋が三センチほど伸びた気がした。
そう指摘すると、本人は即座に否定した。
「普段からこの姿勢だろ」
「さっきまで荷馬車で口開けて寝てたじゃんアルド」
「移動中の休息と、歩行時の姿勢は別だ」
「じゃあ今、家が近づいたから急に歩行姿勢が良くなったの?」
「リィナ。言葉の一部だけ拾うな」
リィナがけらけらと楽しそうに笑う。
ノアは隣を歩きながら、赤縁眼鏡の奥からアルドの横顔をじっと観察していた。
「なるほど。顎の角度、歩幅、肩の開き。確かに普段より礼式的ですね」
「ノアまで分析するな」
「興味深いので」
「俺の帰省を研究対象にするな」
少し後ろを歩くフィアが、何も言わず記録板へ筆を走らせた。
嫌な予感がして、アルドが振り返る。
「フィア」
「はい」
「今、何を書いた?」
「【クロイツ領進入後、アルドの姿勢変化を確認】」
「消せよ」
「事実です」
「なら【変化なし】と訂正しろ」
「虚偽記録になります」
「せめて書く必要があるかを考えてくれ」
「今後、ご実家付近でアルドの態度が変化する条件を比較する場合に有用です」
「何と比較するつもりだ?」
「次回の帰省」
「お前、次回も記録する気なのか……」
レイルは思わず笑った。
「アルド、諦めた方がいいと思う」
「お前は他人事だからそう言えるんだ」
「俺なんてニアに毎日もっと細かく記録されてるんだからさ」
「慰めになってないぞ」
肩の黒銀猫が、ぴん、と耳を立てた。
『使用者ノ睡眠時間、魔力消費、食事量、独語回数マデ記録済ミデス!』
「最後のはいらない」
『重要デスにゃ』
「何に?」
『精神状態ノ推定』
「……フィアとニア、仲良くできそうだな」
「すでに情報共有しています」
「ええっ、してるのか!?」
アルドの声が少し大きくなった。
そんなやり取りをしながら、王都へ続く街道から東へ半日ほど進む。低い丘陵を二つ越えた先に、クロイツ家の館が見えてきた。
一見して、豪奢さを競った宮殿のつくりではない。
灰白色の厚い石壁に囲まれた敷地の中央へ、質実な三階建ての館が立っている。前庭は広いが、花壇より先に目へ入るのは整然と並ぶ訓練用の木人と砂地の演習場だった。その奥には武具庫、馬房、見張り塔まである。
館そのものより、守るための設備の方が目立ち、質実剛健という言葉が似合う。
正門の上に掲げられている紋章も、剣ではない。
二枚の大盾を重ね、その中心へ小さな剣を立てた意匠が施されていた。
戦って勝つことより、まず何かの前へ立つ。
それを見て、アルドの戦い方が、どこから来たのか少し分かった気がした。
「……アルドらしい家だな」
レイルが漏らすと、アルドが少しだけ眉を上げる。
「どういう意味だ?」
「剣より盾が目立つだろう?」
「クロイツ家では、剣を抜かずに守り切れたなら、その方を良とするのだ」
「へえ」
「敵を十人斬った者より、一人も死なせず帰った者を褒める家だ。……少なくとも、建前ではな」
「建前なの?」
「子供の頃は父上に毎日のように盾を持たされた」
「それ、建前じゃないじゃん」
「子供には、重かったんだ」
リィナが笑う。
「アルドにも、子供の頃に『こんなの嫌だ』って時期あったんだ」
「ある、人間だからな」
「意外」
「俺を何だと思ってるんだ?」
「生まれた時から『守護とは責任だ』とか言ってそう」
「言わない、というか赤子は喋れないだろう!」
「三歳くらいで」
「言わない!」
今度はセレネまで口元を緩めた。
「ですが、想像はできますね。『ぼくはしゅごを完遂する』とか言ってそうです」
「セレネまでそっちに行くのか」
門前へ着くと、二人の衛兵が即座に姿勢を正した。
レイルたちは旅装のままだった。外套には街道の埃が残り、靴にも乾いた泥がついている。それでも衛兵たちは眉一つ動かさず、一行全員へ同じ角度で礼をした。
「アルド様、お帰りなさいませ」
アルドも先ほどまでの騒がしさを引っ込め、自然な礼式で応じる。
「ただいま戻った。父上と母上はどこにおられるか?」
「お待ちです。ご同行の皆様についても、そのままお通しするよう仰せつかっております」
「分かった。ありがとう」
「お荷物をお預かりいたします」
「いや、これは自分で持つ。旅の道具だからな」
衛兵は一度だけ頷いた。
「承知いたしました。では、お帰りなさいませ。アルドさまがご無事で何よりでございました」
その言葉に、アルドの表情がわずかに緩む。
「ああ。ただいま――」
門を抜けると、庭仕事や荷運びをしていた使用人たちまで手を止め、一礼した。
大げさに駆け寄ってくる者はいない。だが、どの顔にも帰還を喜んでいるのが目に見えてわかった。
レイルは自分の外套を見る。
裾にはまだ茶色い泥が残っている。
「……先に着替えた方がいいか?」
「必要ない」
「いや、でも床が。こういう家って、絨毯とか高そうだし」
「そこを気にして入れない客なら、戦から帰ってきた騎士も家へ入れないだろう」
「それはそうだけど」
「クロイツ家は客を服の値段や泥の量で選ぶ家じゃない。少なくとも俺は、そう教えられたんだ」
アルドは少し前を向いた。
「俺が言うと自慢みたいで嫌なんだが……そこは気にしなくていい」
声の端に、ほんの少しだけ誇らしさが混じっていた。
ノアがそれを聞き逃さない。
「今、かなりご実家を誇りましたねぇ うふふ」
「悪いのか?」
「いいえ。むしろ安心しました」
「何が?」
「アルドにも素直に好きと言えるものがあるのだな、と」
「家を好きなのと、それを口にするのは別だろ」
「今、口にしましたよ」
「……フィア」
「記録済みです」
「はぁ。もう好きにしてくれ」
アルドが小さくため息をついた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
応接室で待っていたクロイツ家当主は、立ち上がるだけで部屋の空気を変える男だった。
アルドより一回り大きな体格。年齢を重ねても肩幅は広く、濃い金髪には白いものが混じっている。正装の上からでも鍛えられた身体つきが分かり、左手の甲には古い傷が一本走っていた。
蒼い瞳は息子より静かだ。
声を荒らげていないのに、正面へ立たれると自然に背筋が伸びる。
その隣にはクロイツ夫人がいる。
深い青のドレスは華美すぎず、淡い金髪を後ろで端正にまとめている。柔らかな微笑を浮かべているが、右手の親指と人差し指の間には、長く剣を握った者特有の薄い硬さが残っていた。
耳元の小さな銀飾りより、その古傷の方がレイルの目には印象深い。
飾られた貴族ではない。
二人とも、かつて誰かの前に立った人間なのだと分かった。
「よく戻ったな、アルドよ」
当主が息子を見る。
「はい。父上。ただいま戻りました」
アルドが完璧な角度で頭を下げる。
横から夫人の穏やかな声が飛んだ。
「あらまあ。ずいぶんお堅いこと」
「母上――」
「あなた、旅のお仲間の前でも、いつもそのように畏まっているのですか?」
「家では礼を欠かさないようにしているだけです」
「では、外では欠かしているのですね」
「そういう意味ではありません」
夫人が楽しそうに笑う。
ノアが口元へ指を当てた。
「なるほど。母君には弱いと」
「ノア」
「まだ感想を述べただけです」
「フィアは書くなよ?」
「……」
「今、書こうとして、止めただろ」
「記録開始前でした」
「本当か?」
「【母君には弱い】まで」
「もう書いてるじゃないか!」
フィアが無表情のまま記録板を閉じる。
当主の肩がわずかに揺れた。
「ふふ、アルドよ。良い仲間を得たようだな」
「はい。……時々、遠慮を覚えてほしいとは思いますが」
「遠慮しかしない仲間よりよい」
返答が早かった。
「家名を前に口を閉ざす者ばかりに囲まれていれば、自分が間違えた時にも誰も止めてくれん。お前の顔を見て笑える者は大切にせよ」
「……はい」
アルドの返事が、今度は少しだけ柔らかくなった。
当主はそこで一行へ向き直る。
「長旅の直後に堅苦しい挨拶を続ける趣味はない。どうか皆、まずは座っていただきたい。アルドの父、ディートハルト・クロイツだ。此度は息子と共に無事ここまでお越しいただいたこと、家を代表して礼を申し上げる」
夫人も静かに一礼した。
「妻のアーデルハイトでございます。旅先でのアルドの話は、手紙や報告を通して少しずつ聞いております。ですが書類というものは不便ですね。怪我をしたことは詳しく書くのに、誰と食事をしたとか、誰に助けてもらったとか、大事なことほど数行しか書かれておりません」
「母上、報告書に食事相手までは必要ありません」
「母親には必要ですよ」
「私的な手紙で聞いてください」
「あなた、私的な手紙でも『異常なし』『任務順調』『心配不要』しか書かないでしょう?」
「……」
「アルド、それはお前が悪いな」
父親にまでバッサリと切られ、アルドが黙った。
レイルは笑いを堪えながら頭を下げる。
「俺はレイル・アルヴァートです。アルドには、こっちの方が何度も助けてもらってます。盾で守ってもらった回数なんて、たぶん数えたら俺が謝ることになるくらいで」
「数えています」
フィアが言った。
「フィア、今はいい」
「必要なら後ほど提出可能です」
「提出しなくていい」
当主が低く笑う。
「レイル・アルヴァート殿。息子が世話になっている」
「いえ。本当に俺の方が――」
「そう謙遜なさらずともよい。王核大陸からの生還と再訪、白環施設における救助活動、新たな魔法運用法の研究。君の名は、今では王都から届く報告書にも珍しくなくなった」
レイルは椅子へ座ったばかりなのに、また背筋が伸びそうになった。
「報告書に載るほどのことは、そんなにしてないと思うんですけど」
「君自身がそう考えていることも、報告には書かれていた」
「そこまで?」
「むしろ、そこが最も心配だな」
レイルが言葉に詰まる。
リィナが横から小さく頷いた。
「分かります!」
「リィナ?」
「だってレイル、何かやっても『条件が良かっただけ』とか『みんながいたから』とか言うじゃん」
「実際そうだろう?」
「それを十回くらい続けた人は、そろそろ自分も数に入れなよ」
「十回では済んでいませんね」
セレネが静かに加える。
「セレネまで……」
「事実です」
当主はそのやり取りを見て、少し目を細めた。
「良きことだ。自らを過大に評価する者へ大きな力を預けるのは危うい。だが、自らの影響力を過小に見積もり続ける者もまた危ういのだ」
「……はい」
「君が望むか否かにかかわらず、君の判断一つを気にする者は増えている。王国も、学院も、冒険者組合も、そして我々のような爵位を持つ貴族家もだ」
声は穏やかなままだった。
それだけに、政治の話なのだと分かる。
「率直に申し上げよう。クロイツ家として、我々は君との縁を大切にしたいと考えている。王核大陸との道を実際に往復し、白環の中枢へ触れ、新技術を世へ出し始めた人物と良好な関係を築いておく。それは貴族家として当然の判断だ」
「父上」
アルドが少しだけ父を見る。
当主は視線を逸らさない。
「隠す必要はない。政治的な打算がないなどと言えば、かえってレイル殿へ失礼だろう」
そしてレイルへ向き直る。
「貴族が政治を忘れれば、それは職務放棄だ。我々には領民がおり、守るべき土地がある。将来何が起こるか分からぬ以上、信頼できる相手との縁を結ぶこともまた守護の一つだ」
「……分かります」
「ただし――」
当主の声音が少し変わった。
「打算があるからといって、感謝まで偽物になるわけではない」
今度はクロイツ家当主ではなく、父親の目だった。
「アルドは頑固な男だ」
「ち、父上っ」
「違うか?」
「……否定しづらいです」
「自分が守る側だと思うと、自らを帰還者の数から外す悪癖もあった」
「過去形ではありません」
フィアが即座に口を挟む。
「フィア」
「現在も改善途中です。先月も一件ありましたから」
「そこまで報告する必要はないだろ」
「必要です」
「どちらの味方なんだ」
「アルドの生存側ですかね」
言い切られ、アルドが黙った。
当主はしばらくフィアを見たあと、満足そうに頷いた。
「ならば、これほど心強いことはない」
「……恐縮です」
「遠慮なさらなくてよい。息子が自分を粗末に扱えば、どうか遠慮なく叱っていただきたい」
「承知しました」
「父上、勝手にそのような権限を与えないでください」
「すでに持っているように見えるが」
「持っています」
ノアまで答えた。
「ノア!」
「私にもあります」
「二人ともぉ!?」
夫人が上品に笑う。
「アルド。あなた、思っていたより大切にされていますね」
「……ありがたいとは思っています」
「なら、もう少し素直におっしゃいなさい」
「母上」
「その程度で照れていては、この先もっと大変ですよ」
「この先――?」
アルドが怪訝そうにしたが、夫人は微笑むだけで答えなかった。
当主が話を戻す。
「さて、レイル殿」
呼ばれて、レイルも姿勢を正した。
「はい」
「改めて息子を、これからもよろしく頼む」
そう言って、ディートハルトは頭を下げた。
深すぎる礼ではない。
それでも名門貴族の当主が、庶民出身の17歳の若造へ形式だけではない礼をした。
レイルは慌てて立ち上がる。
「頭を上げてください。俺、そんな立場じゃ――」
「立場を決めるのは、時に本人ではないのだ」
「でも――!」
「ならば難しく考えなくていい」
当主は顔を上げた。
「家同士の話は私が考える。君は友人として、あの愚直な息子をどうか、頼む」
「愚直って」
「違うか?」
「……かなり合ってます」
「レイル!」
部屋に笑いが広がる。
レイルもつられて笑ったあと、今度はきちんと当主を見る。
「俺も、アルドには何度も命を預けています。これから先も、たぶんそうなると思います」
「ああ」
「だから俺からもお願いします。アルドが無茶したら、俺たちで止めます。その代わり、俺が無茶した時は……たぶん、アルドに止めてもらいます」
「それでよい」
当主はゆっくり頷いた。
「守るというのは、一方通行では続かんからな」
その言葉が、少し胸に残った。
クロイツ夫人もレイルへ柔らかく微笑む。
「どうぞ肩の力を抜いてくださいませ。クロイツ家では、客人の生まれや爵位より、その方が何を守ってここまで歩いてきたのかを重んじます」
「……はい」
「王核大陸を往復した英雄としてでも、新しい魔法を生み出した研究者としてでもありません。今日は、アルドが連れてきた大切なお友達としてお迎えしています」
「ありがとうございます」
庶民の家に生まれたレイルにとって、貴族の館は今でも少し身構える場所だった。
学院へ入ったばかりの頃には、貴族というだけで自分とは別の世界に住む人間のように感じたこともある。
けれど、この家の空気は思っていたものとはずいぶん違った。
アルドがなぜ、戦えば必ず誰かの前へ出るのか。
なぜ最後まで盾を下ろさないのか。
少しだけ分かった気がした。
「父上」
アルドが口を開いた。
「何だ」
「一つ、分かったことがあります」
「聞こう」
「昔の俺が学院であれだけ偉そうだった理由を、家の教育のせいにできなくなりました」
一瞬、応接室が静かになった。
アーデルハイト夫人が、持ってもいない扇子で口元を隠すように手を添える。
「まあ。ようやくお気づきになったのですね」
「母上まで」
「安心しました。十七年かかりましたけれど」
「そんなにかかってません」
「入学当初を知っている立場としては、かなりかかっています」
セレネが追撃する。
「セレネ、お前はどっちの味方なんだ」
「事実側です」
「その陣営、フィアもいるだろ」
「はい」
「増えてくれるな」
当主は腕を組み、真剣な顔で考え込んだ。
「我が家の教育に一切問題がなかったとは言わん」
「父上?」
「だが、お前の性格については……そうだな。七割五分ほど本人の責任だ」
「増えた!?」
リィナが吹き出した。
「さっき七割くらいだったのに!」
「精査した結果だ」
「父上、息子相手に何を精査したんです?」
「十七年間の観察結果だ」
「長期記録としては信頼性が高いです」
フィアが真面目に頷く。
「フィアまで乗るな!」
とうとうレイルも耐えきれず笑った。
アルドは額へ手を当てる。
「実家に帰って早々、俺には味方がいない……」
アーデルハイトはそんな息子を見て、穏やかに微笑んだ。
「家族は味方ですよ、アルド」
「今の流れで?」
「ええ。あなたが正しければ支えます。間違っていれば止めます。倒れそうなら支えますし、自分だけを置いていこうとすれば叱ります」
「……」
「何でも肯定することだけが、味方ではありませんでしょう?」
アルドは少し黙ったあと、観念したように息を吐いた。
「はい。母上」
その言葉を聞きながら、レイルはふとエナの顔を思い出した。
身体まで一人の仕事にするな、と言われた声。
大丈夫だと笑う母親の顔。
旅立つ時には元気そうにしていたけれど、本当に大丈夫なのだろうか。
(母さん、大丈夫かな)
胸の奥へ小さな不安が沈む。
その隣から、リィナが肘で軽く触れてきた。
「レイル」
「ん?」
「また何か考えてる?」
「……顔に出てた?」
「ちょっとね」
リィナはそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ近い位置に座り直した。
反対側ではセレネも一度だけレイルを見たが、何も言わず紅茶へ口をつける。
一人で抱えるな。
ついさっき聞いた言葉が、別の形でもう一度胸へ戻ってきた。
レイルは湯気の立つ紅茶を一口飲み、今は目の前にいる人たちの声へ意識を戻した。