未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
クロイツ家の夕食は、レイルが想像していた貴族の晩餐よりずっと騒がしかった。
長い食卓には銀器が並び、料理は一皿ずつ運ばれてくる。それでも、当主が食事の途中で領地の橋の修理状況をアルドへ尋ね、夫人が「その話は食後になさい」と止めるあたりは、エルデ村の家族と大きく違わない。
リィナは最初こそ背筋を伸ばしていたものの、三皿目が出る頃には完全に料理へ夢中になっていた。
「このお肉、もう一ついただいてもいいですか?」
「あらあら、もちろんです。いくらでも、遠慮なさらないで。よく食べられるということは健康な証拠ですから」
クロイツ夫人は嬉しそうに給仕へ合図した。
「アルドは子どもの頃から、よく食べる友人を家へ連れてきたことがありませんでしたから」
「そもそも友人を連れてきた記憶がないです」
「言わなくていい」
アルドの耳が少し赤い。
ノアはそれを見て面白そうに微笑んでいる。普段の研究衣ではなく、館で用意された濃紺の上着を羽織っており、淡い金髪と赤紫色の瞳がいつもより貴族の食卓へ馴染んで見えた。
フィアも旅装から簡素な客用ドレスへ着替えている。黒い短いボブは整えられているが、記録板だけは膝の横へ置いていた。
「ところで――」
夫人が、ごく自然な調子でノアとフィアを見る。
「アルド。こちらのお二人のうち、どちらが第一夫人になるのですか?」
食卓が止まった。
リィナが口へ入れかけた肉を落としそうになり、セレネは持っていた水杯を静かに置く。
アルドは数秒、母の言葉を理解できなかったらしい。
「え……母上?」
「はい」
「何の話ですか」
「結婚のお話です」
「聞き返した意味がありませんが!」
ノアが咳き込み、フィアの手が記録板へ伸びる。
「待ってください。なぜ私とフィアが、すでに候補として確定しているのです?」
「違うのですか?」
「違う、と断言するための条件が不足しています」
フィアが先に答えた。
「フィア!?」
「訂正します。現時点で婚約事実はありません。ただし、将来的可能性をゼロと記録する根拠もありません」
「そういう答えをするから話が進むんです!」
夫人は満足そうに頷く。
当主はワインへ口をつけてから、息子を見た。
「二人とも大事なのだろう」
「それは、そうですが」
「ならば二人とも娶ればよかろう」
アルドが完全に固まった。
「父上まで!?」
「何を驚く。王国法でも複婚は認められている。クロイツ家でも珍しい話ではない」
ノアの表情から、今度こそ笑いが消える。
「……私が半吸血種でも、ですか」
その問いだけは小さかった。
当主は一度も迷わなかった。
「それが何か問題になるのかね?」
「クロイツ家は王国騎士を多く出した家でしょう。血統や宗教上の反対が――」
「五代前の当主夫人は魔族系の女性だぞ」
ノアが瞬きをする。
「三代前には獣人の第二夫人もおりますよ」
夫人が穏やかに付け足す。
「戦場で命を預け合った相手を、種族が違うから家の門へ入れるなと言うほど、クロイツ家は狭くありません。もちろん、アルド本人とあなた方のお気持ちが最優先ですけれど」
ノアは珍しく言葉を失った。
自分は長命のダンピールで、人間の家庭へ入る未来など最初から候補にない――どこかでそう決めていたのかもしれない。
その逃げ道を、初対面の貴族夫婦があっさり消してしまった。
「では問題は第一夫人がどちらか、ですね」
夫人が話を戻した。
「戻さなくていいのです!」
アルドの声が食堂へ響いた。
「フフン。家格、寿命、研究能力、対外折衝能力を比較すれば、私が有利な項目はかなりありますね」
ノアが赤縁眼鏡を押し上げる。
復活が早い。
「異議あり、です」
フィアも記録板を開いた。
「家計管理、日程管理、任務記録、帰還条件管理では私が優位です。なお、長命であることを婚姻上の加点項目とする根拠は未確認です」
「百年以上生きる知識量は明確な資産です」
「配偶者より百年以上長く生きる可能性を同時に含みます」
「……そこを攻めますか」
「事実です」
アルドが両手で顔を覆った。
「なぜ本気で比較を始めるんだ……」
リィナが隣でレイルの袖を引く。
「ねえねえ」
「何だ?」
「二人ともは駄目だからね!」
かなり大きな声だった。
今度はレイルが固まる。
「何の話?」
「だから、その……もしレイルが、二人ともとか言い出したら!」
「言い出してないだろ、言ったのはリィナだ」
「分かってるけど、今の話聞いたら一応言っておこうと思って!」
セレネが静かに眼鏡を押し上げる。
「制度上は可能ですよ」
リィナが勢いよく振り向いた。
「セレネ!?」
「王国法上の事実を述べただけです。私個人の感情的許容とは別問題です」
「じゃあ感情的には!?」
「それは……」
セレネの頬へじわりと赤みが差す。
光球が一つ、肩の近くへ浮いた。
「検討が必要です」
「検討するの!?」
「しません! 今のは言葉の選択を誤りました!」
「二人とも、俺を挟んで将来制度の議論を進めないでくれない?」
レイルが止めると、クロイツ夫人が楽しそうに笑った。
「ほほほ、若い方々は賑やかでよろしいですね」
「母上、火をつけたのはあなたですよ」
「私は可能性を確認しただけですよ」
フィアが小さく頷く。
「か、確認は重要です」
「フィアまで母上側に行くな!」
アルドの悲鳴に近い声で、食卓はとうとう全員の笑いに包まれた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
食後、当主はレイルを廊下で呼び止めた。
さきほどまでの結婚騒動とは違い、その顔には家長としての静かな重みが戻っている。
「レイル殿。先ほどは騒がせたな」
「いや……かなり面白かったです」
「息子には気の毒だが、我々も久しぶりに笑えたよ」
当主は中庭へ目を向ける。遠くでアルドがノアとフィアに何か言われ、また両手を振っている。
「レイル殿。あれは不器用だ。命令と責任なら理解できるが、誰かを好きになることは命令書に書かれていない」
「……俺も、人のこと言えないです」
「知っている」
「え」
「息子の手紙に書いてあった」
「アルド、あいつ何を書いてるんだ、いやすいません」
当主は少し笑う。
「君も、いずれ自分で答えを選ぶことになる。それまで息子の横へいてやってくれ。政治的にも、親としても、私は君たちが互いを見失わないことを望んでいる」
レイルは中庭の三人を見る。
「はい。アルドだけじゃなく、ノアもフィアも。全員で帰れるようにします」
「良い返事だ」
その言葉を聞きながら、レイルは自分にも同じ約束が向けられていることを思った。
誰かの家へ帰すだけでは足りない。
自分も帰らなければならない。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夜、ユノとカインは別の町の宿で、雨音を聞きながら古い教会記録を広げていた。
記録に残る異邦人は十二人。そのうち三人の最終記録だけが、不自然なほど似ている。
「『最も穏やかだった日を基準として保存』……何それ。人間を荷物みたいに保存する気?」
カインが石板へ一行だけ書く。
【戻す?】
「誰かはね」
ユノは指先で文字をなぞった。
「帰りたい日があるのと、その日に閉じ込められたいのは全然違う。私だって東京に帰りたい。でも、同じ雨の日を永遠にやれって言われたら普通にキレる」
窓の外で雷が遠く鳴った。
カインは石板を伏せ、先に温めておいた茶をユノの前へ押す。
「ありがと。……勝手に一人で調べに行ったら怒るからね」
【一人で行くな】
「そっちもね」
ユノは茶を一口飲み、【基準として保存】の一文だけ別紙へ写した。