未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
クロイツ家へ滞在して二日目の夕方、領地北部の旧街道で白環残滓の反応が出た。
被害者記録に残っていた小さな礼拝所。その地下へ、白環の回収端末らしい反応が一つ残っているという。
当初は調査だけの予定だった。
だから、ノアの血素補給も翌朝で十分だと本人が判断していた。
その判断が甘かったと分かったのは、地下室の石扉が開いた直後だった。
ギィィンッ!
白い針状の光が、狭い通路を横切った。
アルドが大盾を上げる。衝撃で盾面が鳴り、背後にいたフィアとノアが一歩ずつ下がった。
「右壁、発射口二箇所!」
レイルが短杖を振り、床近くへ風圧を走らせる。リィナは左へ滑り込み、発射口の片方を剣の腹で叩き潰した。
セレネが光線の反射角を読み、残った一方へ土壁を盛り上げる。
「これは防衛端末ではありません。回収端末です!」
ノアの声が飛ぶ。
「何を回収する?」
「白環媒体です。人間が残っていれば、記録ごと持ち帰る設計でしょう!」
通路の奥で、白い人型が立ち上がった。
顔も武器もない。両腕だけが異様に長く、床へ散った白環片を拾いながら近づいてくる。
レイルたちを倒すことより、媒体を集めることを優先している。
「アルド、正面だ!」
「よし、任せろ!」
アルドが踏み込み、大盾で人型の腕を弾く。
リィナがその脇を抜け、膝裏に相当する関節へ【無終剣・抜継】を入れた。
刃を振り切らず、切れ目だけを残して引く。
白い人型が姿勢を崩したところへ、セレネの光槍が床を穿つ。倒れた身体と石床の間へ隙間ができ、レイルはそこだけを狙って風圧を解放した。
ドンッ!
人型が壁へ叩きつけられた。
だが、割れた胸部から細い白線が四方へ伸びる。
「下がってください!」
フィアの警告と同時に、線の一本が荷物へ触れた。
治療鞄が床から跳ね、壁へ叩きつけられる。
ガシャッ!
薬瓶と金属器具が石床へ散った。
「ああっ私の採血器具がっ!」
ノアの声が変わった。
赤縁眼鏡の奥で、瞳の赤が濃くなる。
「ノア?」
「……問題ありません。まず端末を停止します」
口調だけは平静だった。
しかしレイルには分かった。淡い金髪の内側へ、夜紫色がわずかに差している。
血素不足が進み始めた時の兆候だ。
「フィア、ノアを下げて」
「了解。ノア、後退してください」
「まだ術式設計が必要です」
「必要性より血素状態を優先します。ミレアへ引き渡します」
「私は――」
言い返しかけたノアの喉が止まった。
白い人型の胸部が再び開く。
アルドが前へ出た。
「俺が止める。ノアは下がれ!」
大盾が白線を受ける。
火花が散り、アルドの腕が押し戻される。それでも足は退かなかった。
「返事は?」
ノアの声が低くなる。
「何だ?」
「アルド。私は三歩下がります。盾を右へ傾けなさい。今すぐです。返事は“はい”だけしか許しません」
危機になると支配的な管理口調へ反転する。
アルドは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐ従った。
「はい」
三歩下がった瞬間、セレネの光線が人型の足元を貫く。アルドが空けた角度へリィナが入り、胸部の核だけを斬り抜いた。
ギャアァンッ!
白い人型が崩れ、床へ薄い板のように散った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
戦闘が終わっても、問題は終わらなかった。
治療鞄の採血針は二本とも折れ、予備管の口金も割れている。
ミレアがノアの手首へ指を当て、顔を上げた。
「次の町まで二時間以上。今の状態では、とても歩かせられません」
「私は歩けます、から」
「歩けるかではありません」
「その返し、最近流行っていませんか」
「いいから、座ってください」
ノアは渋々、地下礼拝所の長椅子へ座った。
瞳の赤はさらに濃くなっている。指先も冷たい。
フィアが壊れた採血器具を一つずつ確認し、首を横へ振った。
「再利用不可。即席加工も感染管理条件を満たしません」
「では、私の父の古い封管を――」
「百年以上保管している緊急物資を、今ここで開ける方が危険です」
ミレアが却下する。
沈黙が落ちた。
アルドが自分の腕を見る。
「直接じゃ駄目なのか?」
ノアの顔が上がった。
「……何を言っています?」
「前に聞いた。吸血種は直接血を取ることもできるんだろ。器具がないなら、俺から取ればいい」
「そういう問題ではありません」
「危険なのか?」
「危険性だけの話ではありません」
ノアの声が、珍しく揺れた。
フィアが二人を見る。
「文化的制約ですか」
「フィア。今は調べなくて結構ですから!」
「既知資料に記載があります」
「読み上げないでください」
アルドだけが分かっていない。
「必要ならやればいいだろ。俺は同意するが」
「……簡単に言わないでください」
ノアは俯いた。
「ダンピールにとって、直接吸血は単なる食事ではありません。血をいただく側も、自分の血統魔力を相手へわずかに返します。通常の採血なら起きない相互接続です。親族や命を預け合う相手、少なくとも意中でもない相手へ気軽にするような行為ではありません」
「じゃあ、俺じゃ嫌なのか?」
あまりに真っ直ぐな問いだった。
ノアの耳まで赤くなる。
「そういう聞き方が一番困るんですってば!」
ミレアが静かに割って入る。
「ノア。本人の同意はあります。身体上、今は補給した方が安全です。ただし量は必要最低限。アルドも、めまいか動悸が出たら即中止します」
「……分かりました」
ノアはしばらく動かなかった。
やがてアルドの左前腕を取り、袖をまくる。
「本当にいいのですね」
「何回聞くんだ」
「必要な確認です」
「いい。やれ」
ノアは目を閉じ、腕へ小さく牙を立てた。
時間にすれば短い。
だがフィアは、なぜか記録板から目を離せなかった。
ノアの指がアルドの手首を支え、アルドは微動だにせず待っている。
数十秒後、ノアが離れた。
「終了。ミレア、止血をお願いします」
「はい」
ミレアがすぐ傷を処置する。
ノアは顔を背けたまま眼鏡を直した。
「……忘れてください」
「何を?」
「全部です」
「必要だったんだから、恥ずかしがることないだろ」
「貴方が文化的意味を理解していないから言えるんです!」
その時、アルドの表情が変わった。
握った右手を開き、もう一度握る。
「ム、何か、身体が軽いぞ」
フィアがすぐ記録板を上げる。
「筋出力上昇。魔力循環速度も増加しています。ノア、説明を」
「……やはり出ましたか」
ノアは赤い顔のまま研究者へ戻った。
「直接吸血時だけ、私の魔力性分泌因子が噛み傷から相手側へ微量に入ります。吸血種の血統に近い短時間の循環励起です。恒久強化でも治癒でもありません。むしろ限界へ早く到達するので、長時間使えば反動が増えるので危険を伴います」
「名称は?」
「今付けるのですか?」
「記録に必要です」
ノアは額へ手を当てた。
「……【血契励起】。仮称です」
フィアの筆が止まる。
記録欄へ名称を書いたあと、その下へ無意識にもう一行書いた。
【羨望:1件】
数秒後、自分で気づいた。
フィアの淡い青の瞳が大きくなる。
「……訂正します」
消そうとした筆先を、ノアが見つけた。
「今、何を書きました?」
「未確認事項です」
「見せてください」
「拒否します」
「フィア?」
「拒否します!」
同じ言葉を二度繰り返すフィアは珍しい。
アルドは首を傾げ、ノアだけが少しずつ意味を理解していった。
「……なるほど」
「理解しないでください」
「何の話だ?」
「アルドは黙って休んでいてください!」
「二人とも急に厳しくないか?」
地下礼拝所に、戦闘中より困った声が響いた。