未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
クロイツ家を発つ朝、フィアは鏡の前で珍しく長く立ち止まっていた。
借りた客室の姿見には、小柄な少女が映っている。短い黒髪、淡い青の瞳、細身の肩。旅の途中でも帳面と記録板を持ち歩くため腕には少し筋肉がついたが、リィナのような剣士らしい力強さはない。
昨日の客用ドレスを返し、いつもの実務的な旅装へ戻れば、なおさら目立つのは小柄さだった。
フィアは、鏡の前で少し姿勢を正した。
胸を張る。肩を落として、腰をわずかに捻る。リィナが無意識に取るような、健康的で力強いラインを意識してみる。次に、セレネのように背筋を伸ばし、柔らかく見せる角度を探す。ノアが湯船で見せていた、小柄ながらも視線を誘う曲線を真似て、体を少しだけくねらせてみた。
どれも、上手くいかない。
鏡に映る自分の胸元は、ほとんど平面だ。湯に沈めても変化がなく、服の上から押さえても指がすぐに骨に当たる。洗濯板並みのぺちゃぱい。セクシーなポーズを取れば取るほど、そこに何もないことが強調される。膨らみも、谷間も、弾力も、何一つない。
(……結婚を意識したから、余計に目につく)
レイルやアルドの話を聞いた夜から、どこかで比較が始まっていた。ノアや仲間たちと比べれば、当然の結果だ。彼女たちには、それぞれに女性らしい丸みがある。自分には、記録するための指と、数字を書くための目しかない。
「……比較結果、不利」
数歩後ろではノアが髪をまとめている。
ノアも背は高くない。それでも長命のダンピールらしい落ち着いた雰囲気があり、黙って立っているだけで人の目を引く。服の上からでも分かる、小さな体に収まった柔らかな起伏。フィアには、それがひどく不公平に思えた。
「何を比較しているのです?」
ノアの声は穏やかだが、どこか愉しむ響きがある。
「身体的特徴です」
「比較対象を私に設定するのは統計上かなり不適切ですよ。それでも敢えて選ぶなら……もう少し、明確に言いなさい」
「年齢差を含めても、差が大きいです」
フィアは自分の身体を見下ろした。鏡の中で、さっき取ったセクシーなポーズの残骸が、ただの平面として残っている。
「私は、記録しかできない洗濯板女です」
ノアが振り返った。瞳がわずかに細くなる。
「それ、自分で言うのは禁止です。命令です」
「事実項目が二つあります」
「二つとも訂正対象です。“記録しかできない”は明確な誤りですし、体型を蔑称へ変換して自分を評価する必要もありません。……それでも、その自己卑下の仕方、嫌いではありませんよ。正直で、痛々しくて」
「ノアには言えます」
「何ですって?」
フィアは鏡から目を逸らした。さっきまで鏡の前で胸を張ったり、腰を捻ったりしていた自分が、急に惨めに思えた。
「昨日、アルドを直接強化できました。私は見て、数字を書いただけです」
今度はノアが黙った。しばらくして、甘い声で続ける。
「……その悔しさ、もっと聞かせてください。私を嫉妬の対象に据えるなら、中途半端は許しません」
フィアは淡々と話そうとしている。それでも声の端が少し硬い。
「リィナは前で斬れます。セレネは術式を組めます。レイルは完成条件を変えます。ノアには理論も魔法もあり、昨日はアルドへ直接作用しました。私は、全員の後ろで記録しているだけです」
「それが必要だからでしょう」
「必要であることと、隣に立てることは同じではありません」
ノアは鏡越しにフィアを見る。唇の端が、ゆっくりと上がる。
「……私に嫉妬しています?」
「はい」
即答だった。
ノアの方が、わずかに息を飲んだ。そして、被虐と支配が混じった声で言った。
「そこは否定しないのですね。いい子です。正直な子は、好きですよ。……ただし、その嫉妬を“記録しかできない”で片付けられると、私の方が困ります」
「記録を偽る理由がありません」
フィアは記録板を持ち上げた。
昨日の【羨望:1件】は消していない。
「アルドがノアを必要とする理由は、私にも説明できます。私を必要とする理由は、記録担当だからです」
「……それをアルド本人へ聞きましたか?」
「未確認です」
「では勝手に確定しないでください。命令です」
ノアの声は少し強く、しかしどこか期待に満ちている。
「私は貴女に嫉妬しますよ。アルドの行動を一番細かく知っているのはフィアです。あの人が無茶を始める前の癖も、盾を置く位置も、嘘をついた時の返事も、私より貴女の方が知っている。それを“記録しかできない”で捨てられると、こちらまで困ります。……嫉妬している私を、もっと見てください」
「ノアも嫉妬を?」
「します。明確に、強く。貴女に嫉妬しているこの感情を、記録しなさい」
「記録します」
「今の流れでそこへ戻りますか! ……ふふ、その機械的な反応も、嫌いではありません」
少しだけ、フィアの口元が動いた。それでも、鏡に映る自分の平面的な胸元は、消えてくれなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
出発前の中庭で、リィナとセレネにも話が伝わった。
伝えたのはノアだった。わざとらしく、愉しげに。
フィアは抗議したが遅かった。
「フィア、まだ成長期なんだから体つきなんて変わるよ」
リィナが真っ先に言う。浴場で「成長期」と言った言葉を、改めて繰り返す。
「個人差も大きいです。そもそも恋愛上の価値を一部の身体的特徴だけで測る前提が間違っています」
セレネも続ける。
「今、二人とも一瞬だけ言葉を選びました」
「選んでないって!」
「私は適切な表現を選択しただけです」
「それを言葉を選ぶと言います」
フィアは少しだけむっとした。鏡の前でセクシーなポーズを試して、結局「何もない」と自覚した自分が、余計に惨めに思える。
そこへ、家宝庫の確認を終えたアルドが歩いてくる。
「何の話だ?」
三人の女性が同時に黙った。
ノアが楽しそうに一歩引く。ドSの余裕と、ドMの期待が混じった笑みだ。
「ちょうどよいので本人へ確認しましょう。フィア、逃がしませんよ」
「ノア!」
「で、何だというのだ?」
「アルドは、女性の外見で何を重要視しますか。はっきりと、答えてください」
唐突すぎる質問に、アルドの足が止まる。
「ム……急だな」
「回答をお願いします。曖昧なものは、却下します、これは命令です」
「外見か――?」
アルドは本気で考え込んだ。
フィアの指が記録板の上で固まる。鏡の前で取った、無駄だったセクシーポーズの感触が、まだ手に残っている。
「綺麗だと思う人はいるぞ。可愛いと思うこともある。でも、結婚とか一緒に暮らす話なら、それより俺のことを理解してくれる人の方が大事じゃないか?」
フィアが顔を上げた。
「外見項目への回答が不足しています」
「そこまで細かく決めてない。俺が無茶したら止めて、間違ってたら言ってくれて、それでも帰ってきた時に隣にいてくれる人がいい」
アルドはそこで、なぜ全員が自分を見ているのか分からない顔をした。
「……何だ?」
フィアは記録板へ視線を落とす。
いつもの速さで一行だけ書いた。
【回答:保存】
ノアが横から覗き込む。声は甘い。
「永久保存ですか? いい判断です。ただし、その記録を私だけに見せないのは、少しずるいですね」
「削除予定なし」
「ずるくありません?」
「何がです?」
「今の台詞、私にも向けて言ってほしいです。命令、ではありません。お願い、です。……どちらでも、聞いてくれますか?」
アルドが困る。
「ノアも俺を理解してくれてるだろ」
「……そういう天然の追加回答を即座に出すの、禁止できませんか。私を焦らすのは、もっと意図的にしてください」
「なぜ?」
リィナがとうとう吹き出し、セレネまで眼鏡を外して笑った。
フィアも少しだけ笑った。
それでも胸の奥に残るものは消えなかった。
必要とされることと、自分が自分を必要だと思えることは、まだ別だった。
鏡の前でいくらセクシーなポーズを取っても、そこにあるのは洗濯板並みのぺちゃぱいだけ——結婚を意識し、ノアや仲間と比べてしまえば、当然の結論だった。
ノアは、そんなフィアの横顔を眺めながら、静かに目を細めた。悔しがる顔も、自己卑下する声も、彼女にとっては上等な刺激らしい。