未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
フィアの実家は、クロイツ家の領地から西へ二日ほど進んだ帳架町にあった。
王国の税記録や街道通行記録、古い依頼書の写しを保管する町で、通りを歩けば武器屋より紙店と製本所の看板が多い。家々の窓には湿気避けの乾燥石が置かれ、路地の角にまで「火気厳禁」の札が立っていた。
フィアは町へ入った瞬間から、いつもより歩幅が少し狭くなった。
「緊張してるのか?」
アルドが隣から尋ねる。
「していません」
「歩く速度が普段より遅いぞ」
「荷物量を考慮した調整です」
「俺が半分持つか?」
「不要です」
三歩進んでから、フィアは記録板を胸へ抱え直した。
「……訂正します。少し緊張しています」
「帰るの久しぶりだから?」
「それもあります。両親は、私が学院へ入る前から記録の癖を知っています。現在の私を見て、何を言われるか予測できません」
「いいじゃないか。昨日の俺なんて、実家に帰ったら嫁を二人連れてきたことにされた」
「まだ候補です」
「そこを訂正するのか」
フィアの口元がほんの少し緩んだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
レコード家は、町の古文書庫へ隣接した二階建ての家だった。
玄関を開けた途端、紙と乾燥薬草の匂いがする。壁一面に棚があり、年代ごとに紐で束ねられた帳面が並んでいた。
フィアの父は文書庫の照合官、母は街道記録の整理役をしている。二人とも娘の帰還を喜んだが、抱きついたのは母だけだった。
「お帰りなさい、フィア。少し背が伸びた?」
「前回帰省時から2.1センチメートルです」
「そういう返しも変わってないわね、あなた」
父は眼鏡を外し、フィアの後ろに立つ一行へ頭を下げた。
「娘がいつもお世話になっております。特にアルド殿のお名前は、手紙で頻繁に」
「父」
フィアの声が一段だけ低くなる。
「何だい」
「開示範囲を確認してください」
「名前しか言っていないよ」
「頻度という情報が追加されています」
アルドは何も分からない顔で首を傾げ、ノアだけが楽しそうに目を細めた。
「なるほど。頻繁なのですね、研究しがいがあります」
「ノア。記録対象から除外します」
「不可能でしょう。私は今ここにいますから」
母がくすくす笑う。
「昔からそうなの。この子、恥ずかしいことほど記録を消せないのよ。事実だからって」
「母まで」
フィアの耳が赤くなった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
夕食後、父が屋根裏から木箱を一つ下ろしてきた。
中には、子どもの字で埋められた薄い帳面が何十冊も入っている。
「フィアが学院へ行く前の記録だ」
「保存していたのですか」
「捨てろとは言われなかったからね」
フィアは一冊を開く。
六歳の記録。
七歳。
八歳。
内容は今と変わらない。起床時刻、天候、父が鍵を置いた場所、母が買い忘れた塩、町の門番の交代時刻。どうでもよいことまで几帳面に書かれている。
その中に、同じ名前が何度も出てくるページがあった。
「訓練所?」
リィナが横から覗く。
「町の自警団です。子どもの頃、見学していました」
フィアは読み進める。
盾役の訓練記録だった。誰がどちらの足から踏み込むか、何回目で腕が下がるか、同じ攻撃を何度受けると姿勢が崩れるか。
父が別の紙を差し出した。
「その頃、自警団の人たちが不思議がっていた。フィアが見て記録するようになってから、同じ訓練の失敗が減ったと」
「私が改善点を伝えたからでは?」
「それもある。ただ、後で考えてみると、伝えていない日も数字が変わっていたんだよ」
フィアの指が止まる。
「敵役をしていた者の方も、同じ攻撃を繰り返すほど妙に鈍った。子どもの遊びの範囲だったし、誰も固有律だとは思わなかった。記録を見られる緊張のせいだろう、とね」
ノアが帳面を受け取り、紙に残る古い魔力痕を読む。
「薄いですが、ありますね。フィア本人の魔力残滓。記録行為のたびに、ごく微弱な干渉が発生しています」
「私は【目録】しか持っていないと判定されています」
「固有技能と固有律が同時に自覚されるとは限りません。条件が足りなかったのでしょう」
フィアは自分の幼い字を見つめた。
「条件……」
紙へ書くだけでは足りない。
何のために記録するのか、自分自身が決めたことがなかった。
フィアにとって記録は、間違えないための習慣であり、現実を捏造しないための防壁だった。
それ以上を望んだことはない。
昨日までは。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
翌日の昼、町の旧文書庫で異変が起きた。
白環被害者記録の照合中、地下保管室に封じられていた小さな白環片が反応し、棚の間から人型の影が三体現れた。
前日に戦った回収端末より小さい。だが動きは速く、同じ剣形を寸分違わず繰り返す。
「全員、棚から離れろ!」
アルドが【帰城盾】を構え、中央通路へ立つ。
白い人型の一体が上段から刃腕を振り下ろした。
ガンッ!
盾と刃が噛み合う。
青い魔力線が【白誓魔鎧】へ流れ、衝撃を脚へ逃がす。アルドは姿勢を崩さず押し返した。
「一撃目。右上段。踏み込み右足」
フィアが記録する。
二体目も同じ軌道。
「二撃目。同一」
三体目。
「三撃目――同一」
アルドの盾へ三度目の衝撃が入る。
今度は受けきったはずのアルドが、わずかに前へ出た。
「今、楽だった?」
「……ああ。三発目の方が軽いな」
フィアの瞳が揺れる。
白い人型は下がり、全く同じ足順で再び構えた。
「四撃目、同一予測」
フィアが口にした途端、敵の刃腕を包む白光が一段薄くなった。
ノアが横で息を呑む。
「記録した反復へ干渉しています。フィア、続けて!」
敵が踏み込む。
「開始位置、同一。右足。上段。角度、前回差0.4度」
アルドは盾を上げる。
フィアの記録板に書いた文字が淡い青白い光を帯びた。
同時に、アルドの右足が前回より無駄なく地面へ置かれる。盾角度も、最も衝撃を逃がせた二撃目とほぼ一致した。
ガァンッ!
白い刃が弾かれた。
敵側の光はさらに弱い。
「私が……?」
フィアの声が止まった。
その隙を狙って、別の一体が棚を蹴り、上から回り込む。
これは今までにない動きだった。
「フィア、上!」
アルドが盾を振り上げるが間に合わない。
リィナが横から飛び込み、刃を受け流した。
キィンッ!
「こら!戦場でぼーっとしないの!」
「……はい」
フィアはすぐ記録へ戻る。
新しい動きには干渉できなかった。
「未知行動、減衰なし。新規記録を開始します」
人型三体は、同じ攻撃と新しい攻撃を混ぜ始めた。
記録済みの型は少しずつ鈍る。だが新しい型はそのまま鋭い。
能力は、万能ではない。
そこでフィアには分かった。
これは相手を記録へ閉じ込める力ではない。
変わらず同じことを続けるものだけが、自分の記録へ捕まる。
その時、奥の棚が崩れた。
アルドが子どもの記録員を庇って下へ入り、帰城盾で棚を受ける。そこへ白い人型が二体、左右から同時に走った。
「アルド!」
盾は棚を支えている。剣だけでは両方を止められない。
フィアの頭へ、これまでの記録が一気に浮かんだ。
アルドが何度盾を置いたか。
何度無茶をしたか。
何度「帰る」と言ったか。
何度、自分自身を条件から外したか。
そして、最近になってやっと「二人が帰ってくる場所へ自分も帰りたい」と言ったこと。
(また、私は記録するだけなの――?)
アルドが傷つく順番を正確に書く。
倒れた時刻を間違えず残す。
帰還欄を空白にする。
そんな記録は、嫌だった。
「……嫌です!」
フィアの声に、ノアが振り向く。
「フィア?」
「アルドが倒れる記録なんて、残したくありません」
初めて、条件でも番号でもない言葉が先に出た。
「私が記録したものが、現実と一致するだけなら――今度は、帰ってくる方を一致させます」
記録板から光が溢れた。
過去の帳面、現在の目録、アルドの守護記録が青白い線となって空中へ重なる。
【記録律】
フィア自身が、その名を読んだわけではない。
世界の側が、長く続いた記録へ名前を与えたように文字が浮かんだ。
「アルド。右足を半歩外へ。盾の下端を床へ。過去成功記録、第百十二件と照合します」
「分かった!」
アルドが動く。
棚の荷重を肩から盾へ移し、右足を外へ置く。その姿勢は、以前の坑道で最も重い落石を受けた時と同じだった。
魔力消費が落ちる。
身体の揺れが消える。
「左敵、同一刺突四回目。出力減衰を確認。右敵、新規行動――リィナ、お願いします」
「任せて!」
リィナが右へ走る。
左から来た白刃は、アルドの盾へ当たる前から光を失い始めた。
ガンッ!
軽い。
アルドが盾ごと押し返し、【誓護剣】を抜く。
「フィア!」
「進路、記録済みです。行けます」
剣が白い人型の胸を断った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
戦闘後、フィアは地下文書庫の階段へ座っていた。
記録板の文字はもう光っていない。
アルドが隣へ来る。
「大丈夫か?」
「未確認です」
「それ、大丈夫じゃない時の返事だろ」
フィアは少し黙る。
「私が、強化したのですか」
「したな」
「私は記録しただけです」
「その記録があったから、棚も子どもも守れたんだ」
フィアは膝の上の板を見る。
「私はずっと、後ろで記録するだけの人間だと思っていました」
「後ろじゃ駄目なのか?」
「……アルドの隣に立ちたいと思いました」
今度はアルドが黙る番だった。
だが、悩んだのはほんの少しだった。
「じゃあ隣にいればいいだけだろ」
フィアが顔を上げる。
「いいのですか」
「今まで駄目だったのか?」
「そういう意味ではなく――」
説明しようとして、やめた。
天然なアルドへ恋愛上の意味をここで説明するのは、たぶん今ではない。
「……記録します」
「何を?」
「今の発言。削除予定なしです」
少し離れたところでノアが腕を組んでいる。話が一区切りしたところで腕組みを解き、ゆっくり拍手する。
「おめでとうございます」
「ノアは嫉妬しないのですか」
「しますよ」
「するのですか」
「します。しかし、貴女が弱いままの方が私に都合がいいとは思いません。アルドを守れる人間が増えるなら歓迎します」
ノアはそこで一度区切った。
「競争相手が強くなることは歓迎していませんが」
「同感ですね」
二人が同時にアルドを見る。
「何の競争だ?」
答えは返さなかった。