未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
記録術科の実験室へ入って5分で、フィアは帰りたそうな顔になった。
本人は表情をほとんど変えていない。それでもレイルには分かる。記録板を胸の前で持ち、筆先を完全に止めている時は、考えることが多すぎる時だ。
原因はエリオだけではなかった。
机を囲む学生が八人いる。
全員、記録術科か結着管理科の後輩だった。
「フィア先輩、【記録律】って過去ログから自動補正するんですか?」
「敵の弱体化って、記録媒体が紙じゃなくても成立します?」
「味方の動作を強化する時、本人の同意は必要ですか?」
「アルド先輩だけ補正精度が高いって本当ですか?」
最後の質問で、フィアの筆が一度だけ滑った。
「質問を1件ずつ」
「はい!」
「第一。自動ではありません。私自身が観測、照合、対象指定を行います。第二。媒体は必須条件ではありませんが、外部記録がある方が私の認識誤差を減らせます。第三。味方へ意図的な補正を掛ける場合、原則として事前同意を取ります」
「第四は?」
「……比較検証不足です」
エリオがにやりとする。
「アルド先輩だけ、毎日めちゃくちゃ記録してるからじゃないッスか?」
「エリオ」
「はいッス」
「不要な推測は記録精度を下げます」
「今の怒ってるッス?」
「事実です」
周囲から笑いが漏れる。
少し前までなら、フィアはこうして注目されること自体なかった。
誰かの後ろに立ち、件数を読み、欠落を知らせる。必要不可欠ではあるが、前へ出て説明を求められる役ではなかった。
今、学生たちが答えを求めている相手はフィア本人だった。
「フィア先輩」
エリオが急に真面目な声を出した。
「僕、紙紋と事故記録ばっかり追ってきたんスけど、記録って終わったことを残すためのものだと思ってたんス。先輩の能力、残した記録が次の失敗を減らすんスよね?」
「そうなる場合があります」
「だったら、教えてください」
エリオは両手を机へついた。
「フィア先輩も、僕の師匠になってくださいッス!」
フィアの指が止まった。
少し前なら、迷う理由すらなかったと思う。自分は教わる側で、記録する側だ。前へ立つ人間の判断を残すことはできても、自分の判断を誰かへ渡すことなど考えたこともなかった。
「却下します」
「早い!」
「私は指導経験がありません」
「じゃあ僕が第一号になるッス!」
「論理が逆です」
「レイル師匠にも同じこと言われたッス!」
「それに、私はまだ自分の固有律を完全には理解していません。未知条件も多い。そんな状態で、他人へ“これが正しい”と教えるのは危険です」
「正しい答えだけ教えてほしいわけじゃないッス」
エリオの返事は意外に早かった。
「分からない時に、何を記録して、何を未確認のまま残すか。それを教えてほしいんス。僕、前は空欄があると全部埋めたくなってたッス。でも先輩、さっき“全部埋める必要はない”って言ったじゃないッスか」
フィアの淡い青の瞳が揺れる。
空欄を恐れない。それは最近になって、自分自身がようやく覚え始めたことでもあった。
「……その部分なら、説明できます」
「じゃあ師匠!」
「師匠とは言っていません」
レイルが横から口を挟む。
「お前、俺からフィアへ乗り換えるの?」
「違うッス! 師匠が二人になるだけッス!」
「節操がありませんね、貴方は」
リオンが腕を組む。
「リオン先輩には言われたくないッス!」
「私は大師匠一筋ですよ」
「同い年なのに!」
フィアが二人を交互に見る。
「師弟関係の定義が崩れています」
「学院では昔からこんな感じだよ」
リィナが笑った。
その隣でセレネが少し考え込んでいる。
「……なぜ私には弟子志願が来ないのでしょうか」
「セレネ?」
「四並列形成も空欄一路も、教育価値はあると思います」
「あんたも対抗しなくていいから!」
リィナが即座に止める。
フィアの口元が、ごく小さく緩んだ。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
講義は結局、1時間を越えた。
フィアは最初こそ「説明のみ」「弟子入り未承認」と何度も念を押していたが、学生が実際の事故記録を持ち出すと態度が変わった。
過去3か月、蓄魔槽の封緘材が予定より早く劣化した事例。
学生たちは原因を媒体の品質差と考えていた。
フィアは資料を5分ほど読み、日付を並べ替える。
「封緘材ではありません」
「え?」
「充填担当が交代した翌日だけ、損失率が0.8%上昇しています。四回一致。担当者の魔力癖が共通封緘へ残留している可能性があります」
「でも属性は同じです」
「属性以外の差分を未記録にしています」
フィアは学生の記録表へ指を置いた。
「ここ。術者名はありますが、充填開始時の疲労、直前使用魔法、手袋の有無が空欄です。次の2週間だけ追加記録してください。全部埋める必要はありません。原因候補を分けられる項目だけで十分です」
学生たちは一斉に書き始めた。
レイルは少し離れた壁際から、それを見ていた。
フィアはもう、誰かの記録係というだけではなかった。
自分の経験を使って、他人の記録の取り方まで変えている。
エリオが目を輝かせる。
「やっぱ師匠ッス!」
「未承認です」
「仮師匠!」
「その制度はありません」
「作るッス!」
「勝手に制度を作らないでください」
そこへアルドが遅れて実験室へ入ってきた。
「フィア、検査の時間だって――どうした、この人数」
「弟子志願です」
「弟子?」
「未承認です」
エリオが手を上げる。
「アルド先輩! フィア先輩を師匠にくださいッス!」
「俺に聞くのか?」
「一番近い人へ確認するのが早いッス!」
フィアの頬がわずかに赤くなる。
「エリオ。記録術科へ戻りなさい」
「ここ記録術科ッス!」
「では廊下へ出します」
「物理的に!?」
笑い声が実験室へ広がった。
アルドは状況を理解しきれないまま、フィアの記録板を見る。
「でも、よかったな」
「何がです?」
「教えてほしいって言われるの。フィアが積み上げてきたもの、ちゃんと見てる人がいたってことだろ」
「私は、まだ失敗します」
「俺もする」
「アルドは比較対象として不適切です」
「ひどくないか?」
少し笑いが起きる。けれどアルドは、そのまま真面目な顔で続けた。
「失敗しないから教えるんじゃないだろ。失敗した時に、何を見て次へ直すか知ってるから教えられるんじゃないか。俺はフィアに何度も助けられてる。盾を出す位置も、無茶した回数も、戻る条件も。正直、俺より俺の悪い癖を知ってる」
「……それは、かなり知っています」
「なら十分だ。少なくとも俺なら、そういう人に教わりたい」
フィアの返事は少し遅れた。
「……記録します」
「何を?」
「今の発言」
「またか?」
「重要度、高です」
アルドは困ったように笑った。
フィアは記録板へ視線を落とした。
少し前まで、自分には記録しかないと思っていた。ノアは血を分け合うことでアルドを直接強化できる。レイルやセレネは術式を組み、リィナは剣を持って隣へ立つ。自分は後ろで数字を書き、倒れた時刻まで正確に残すだけなのだと、本気で思っていた。
けれど今、目の前の学生たちは、その記録の仕方を教えてほしいと言っている。アルドも、それを積み上げてきたものだと言った。
記録することは、終わったものへ線を引くだけではない。次に同じ失敗をさせないためにも使える。
「エリオ」
「はいッス!」
「正式な弟子入りは保留します」
「やっぱりッスか……」
「ただし、週1回。事故記録を1件持ってきてください。私が確認しますので」
「それって!」
「指導実績を作るための試験運用です。師弟関係の承認ではありません」
「実質弟子ッス!」
「違います」
「仮弟子!」
「その制度もありません」
言いながら、フィアの口元はほんの少しだけ緩んでいた。
その横でエリオが小声でレイルへ言う。
「師匠。あれ、絶対特別枠ッスよね」
「たぶん、な」
「聞こえています」
「すみません」
師匠候補の耳は、思ったより良かったようだ。