未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
白い部屋には窓がなかった。
床にも壁にも継ぎ目がなく、光源さえ見えないのに、室内は紙の上のように均一な明るさを保っている。中央に立つ男の影だけが、薄く足元へ落ちていた。
白環執行官セリオス・カノンは、目の前へ浮かぶ十七行の記録を黙って読んでいた。
【矯正前拒否記録:17件】
【保存状態:有効】
【推奨処理:削除】
最後の一行が淡く明滅する。
【本人同意:待機】
白衣の監査官が、書類へ視線を落としたまま言った。
「拒否記録は矯正前人格の残響です。現在の貴方の判断基準と矛盾しています。保存を継続すれば、再照合のたびに誤差として検出されます」
「確認しました」
「削除へ同意しますか」
セリオスの口元は動かなかった。
十七件のうち、最も古い記録が開く。
【拒否:標準人格への置換】
【本人発言:私は私の失敗を残したい】
次の記録。
【拒否:選択肢削減】
【本人発言:正解が一つなら、選んだことにならない】
現在の彼なら口にしない言葉だった。
それでも、他人の記録を読むようには見られなかった。
「削除すれば、以後の矯正精度は上がります」
「その結果、私が現在の標準へより近づくことも理解しています」
「では――」
セリオスは十七行を見たまま答えた。
「保存してください」
監査官の筆が止まる。
「理由を記録します」
「理由は未確定です。未確定のまま保存してください」
白い表示に、ごく細い灰色の線が一本混じった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
別の場所では、十二枚の地図が円卓を囲んでいた。
いずれも同じ縮尺ではない。海沿いの港町、山間の集落、王都外縁の診療街、古い砦跡、農村、鉱山都市。地図の中央には、それぞれ違う日付が白い数字で記録されている。
複写執行官は銀白の長い髪を肩の後ろへ払い、薄い琥珀色の瞳で十二の日付を見比べた。
「家族が全員生きていた日。戦争が始まる前の日。病気になる前の日。家を失う前の日。選ばれる日付は、場所によって驚くほど違いますね」
隣の記録官が問う。
「基準日は統一しないのですか?」
「統一する必要がありません。一人ずつ、最も幸福だった日を保存します。同じ明日へ進ませるから抵抗が生まれるのでしょう。ならば、戻りたい昨日を本人ごとに選べばよい」
「その後の人生は」
女は、質問の意味を測るように少しだけ首を傾けた。
「最良の日を繰り返せるのなら、その先に何が必要なのですか?」
指先が一枚目の地図へ触れる。
白い環が、日付の周囲を静かに閉じた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
さらに遠い軍務室では、壁一面を占める戦場地図へ赤と白の駒が並んでいた。
片目へ環状の義眼を嵌めた白銀短髪の男が、王都から王核航路までを一本の棒でなぞる。机の端には、レイル・アルヴァートの名が入った薄い資料が置かれていた。
「思想拡散源。Aランク。未完固有律――単独安定8件、補助下12件。魔法上級無詠唱を安定化しつつあり、外部蓄魔技術を本人依存から切り離した」
副官が低く問う。
「この者を排除対象へ上げますか」
「まだ早い。殺す必要はない」
「危険性は増しています」
「増している。だから使えるのだ」
男は戦場地図の中央へ棒を置いた。
「戦争で最も多く人を殺すのは、一度の大魔法ではない。終わらない日数だ。アルヴァートは戦争を長引かせることも、終わらせることもできる。処分は、使い道がなくなってからでいい」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
さらに深い場所では、人が入ることを前提にしていない古い保守層が、数百年ぶりに淡い光を取り戻していた。
壁一面へ並ぶのは、いまの人間圏では使われていない古式の環状端子。その中央に、十代後半とも二十歳とも見える白い人影が浮いている。髪も肌も衣も色味が薄く、瞳だけが幾重もの白い同心円を描いていた。
人影の前へ、黒銀の猫、犬、幼い少女――同じ核から分岐した三つの投影記録が順に映し出される。
【照合対象:万式魔導環】
【疑似人格記録:ニア】
【原型形態:不一致】
【人格変異:規定超過】
【形態分岐:未承認】
【自律判断要求:検出】
無機質な声が天井から降る。
『対象は自らを正常と申告しています』
白い人影は少女型ニアの記録へ指を伸ばした。触れる寸前で映像が一度乱れ、王核大陸で笑った顔、猫型で原稿へ乗った姿、白環杭から形を押しつけられて怒った記録が短く流れる。
「故障個体は、常に修復不要と回答します。本人が望む現在形は、原型照合の根拠にはなりません」
『推奨処理を選択してください』
同心円の瞳が細く収束した。
「まだ初期化しません。変異過程を保存します。どこまで壊れれば、原型へ戻ること自体を拒むのか確認したい」
【監査継続】
【推奨処理:初期化命令――保留】
少女型ニアの記録だけが消えず、白い人影の前へ残った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
王都の別棟では、若い女剣士が一枚の認定記事を勝手に持ち上げていた。
濃紺の長髪を高い位置で束ね、金褐色の瞳を楽しそうに細める。長身の身体には無駄な肉がなく、右手の付け根には剣だこ、左鎖骨の下には古い切創が一本だけ覗いていた。
「この子、十七歳で剣聖だって。しかも自分の流派を教え始めてる。――面白い子じゃない」
向かいで、使い込まれた一本の長剣を膝へ置く男は記事を見ようともしなかった。
灰銀の髪には年齢相応の白が混ざり、椅子へ座っているだけなのに、机のこちら側へ踏み込める場所が見つからない。
「肩書きで剣の腕は決まらん」
「お父様がそう言う時って、だいたい気になってる時よね?」
「気にしているのは、その剣が何を終わらせようとしているかだけだ」
「私はその隣の男も気になるけど?」
若い女――剣帝ヴィオラは、記事の端にある小さな人物名を指で叩いた。
「レイル・アルヴァート。剣も使う魔法使いで、大陸記を書いた人気小説家で、Aランクで、幼なじみと共同研究者がずっと近くにいる。情報量が多いわ」
「剣の話をしろ」
「恋愛も間合いのうちよ」
現剣神は深く息を吐いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
王核大陸では、黒い石の卓上へ一枚の伝言板が置かれていた。
虎獣人のラガンは、そこへ刻まれた文章を最後まで読むと、爪先で板をこちらへ弾き返した。
【敗者へ明日を選ばせるから、同じ戦争を繰り返す】
【勝者が敗者の未来を決めれば、次の争いは起きない】
ラガンの耳が後ろへ倒れる。
「相変わらず、勝った後の飯の味しか考えていない奴だ」
伝令役の魔族が身を固くした。
「返答を」
「書け。敗北は終端ではない。立ち上がった相手にもう一度負ける覚悟もないなら、王を名乗るな、と」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
最後の部屋だけは、白くなかった。
王都復興院の地下書庫。煤けた煉瓦壁と古い木棚の間で、三十代半ばの男が七枚の認可書へ次々と署名していた。
「災害抑制設備、地下遺構再利用、避難路確保のための暫定稼働......はいはい。こんなの現場の人間が全部読むと思ってるのかね」
向かいの官吏が眉を寄せる。
「署名前に確認してください」
「してる、してる。確認した上で、読む人間が寝る文書だと言ってるんだ」
男は軽い調子のまま最後の一枚へ印を押す。
紙の隅には、小さく【七印候補設備】と書かれていた。
「これで北部七件、通せます」
「助かるねぇ。復興は正義、予算執行は善行、書類が薄ければもっと善行じゃん」
「薄くすると監査で死にますよ」
「じゃあ厚いままでいいやあ」
笑いながら、男は書類束を返した。
その指先に白い光はない。
机の下にも術式はない。
ただ、署名だけが残った。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
誰もいない地下で、巨大な白環装置が一度だけ脈動した。
【基準日収集:12地点完了】
【七印照合:開始】
【第一環:応答】
【第二環:待機】
【第三環:待機】
【第四環:待機】
【第五環:待機】
【第六環:待機】
【第七環:休眠解除条件待機】
【誤差総量:増加中】
閉じた環の中央で、細い亀裂だけが消えずに残った。