未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
ヴィオラが残した恋愛案件は、その日の夜まで棚上げになった。
逃げたわけではない。少なくともレイルはそう思っている。北央防災城塞の工房へ、ロッテから「試作機が動く」と連絡が入ったためだ。
工房中央の机には、以前の卓上箱よりずっと小さな黒灰色の端末が二台置かれていた。
幅は掌二つ分。厚みは拳ほど。側面に金属製の送信板、上部に短い人工導出端、耳元へ当てる受話片。腰へ下げるにはまだ重いが、荷車が必要だった有線電話と比べれば別物だった。
「見た目は悪いよ、はっきしいって」
ロッテが第一声で言った。
「自分で作ったのにそんな言い方っ」
リィナが笑う。
「試作品の見た目を褒めても軽くならない。今は中身だ」
端末の下へ、小さな長方形の筒が差し込まれている。
「これが外部槽?」
レイルが持ち上げた。
「【交換式蓄魔槽】。昨日の分圧槽を削って、通信だけなら約二時間。連続送信だともっと短い。落とせば壊れる。水にも弱い。高い。熱も持つ」
「欠点が多いな」
「初号機に夢を見るなよ」
ノアが端末の裏蓋を開ける。
「信号識別は?」
「セレネが昨日作った三桁符号を載せてる」
セレネは【五路演算晶】を三枚だけ胸元と左右腰へ仮装着していた。まだ五枚常用ではない。
「送信前に識別符号を一度付けます。同じ符号を登録した受信器だけが音声変換へ入る。他の波形は切り捨てます。ただし、暗号化ではありません。符号を知られれば傍受できます」
フィアが一行記録する。
「第一世代の制限として明記します」
レイルは端末を持ち直した。
「名前は?」
ロッテが眉をしかめる。
「お前ら昨日から勝手に呼んでるだろ」
「試作無線箱」
「それは名前じゃない」
ノアが言う。
「正式名は【携帯魔導通信器】でよいのでは。共通呼称も必要でしょう」
セレネが資料へ書き込む。
「軍用帳票はそれで統一します。現場では『通信器』で十分です」
リィナが端末を見る。
「長い」
「現場では通信器で十分です」
アルドが頷く。
「通信器。分かりやすい」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
試験は城塞外壁を挟んで行われた。
送信側はレイル、セレネ、ロッテ。受信側は約300メートル離れた東監視塔のアルド、リィナ、フィア、ノア。
ただし、最初に端末を操作するのは魔術師ではない。
「俺でいいんですか」
通信兵の青年が不安そうに聞いた。
魔力適性が低く、基礎魔法もほとんど扱えない兵士だ。
「むしろ貴方で試したいんです」
レイルが答える。
「魔術師が使って成功しても、端末の成功か術者の補助か分からなくなる。操作は送信板を押して、話して、離すだけ。魔力はマナ・セル側から供給されます」
「押しっぱなしだと?」
「送信しっぱなしです。電力――じゃなくて魔力を余計に使う。あと他の人が送れない」
レイルは前世語彙を飲み込んだ。
「了解」
青年兵が端末を胸元へ持つ。
「東監視塔、こちら西外壁。聞こえるか」
数秒。
ノイズ。
『こちら東監視塔。聞こえる。少し雑音あり』
アルドの声が返った。
青年兵の顔が変わる。
「聞こえた......」
彼は思わず端末から手を離し、また送信板を押した。
「本当に、線なしで?」
『線なしだ。こちらから西外壁も視認できない』
次にリィナの声。
『レイル、聞こえてる?』
レイルが自分の端末を取る。
「聞こえる。音量は?」
『ちょっと小さい。でも普通に分かる』
「壁二枚と高低差11メートル。300メートルでこの程度なら――」
セレネが横から端末へ口を寄せた。
『リィナさん。次、100メートル北へ移動してください。地形遮蔽を追加します』
『了解。あとレイル、こういう時まで数値の感想から入るのやめなよ』
「通信試験なんだから仕方ないだろ」
『弁当の時も同じだったもん!』
ロッテが通信器を奪って切った。
「おい、私用回線にするな」
セレネが咳払いする。
「試験継続です」
赤くなったのはレイルだけではなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
約800メートル。
木立一つ。
石壁二枚。
雨を模した水幕。
順番に条件を増やす。
800メートル地点で音声が崩れ始めた。
『こち――東――受信――』
ノアの声が途切れる。
「これが限界だな」
レイルが言った。
「出力を上げれば」
リオンが口を挟む。
「今日は上げません」
セレネとロッテが同時に止めた。
「分かっています。言ってみただけです」
リオンが少し寂しそうに帳簿を閉じる。
ノアが戻ってきた後、試験結果をまとめた。
「平地なら1キロメートル弱。市街地では500メートル前後を安全圏と見るべきです。地下はさらに落ちるでしょう」
「中継器が要りそうだ、それに出力の増幅も検討できるし、やることは一杯ありそうだ」
レイルが言う。
「将来的には、ですね」
セレネが釘を刺す。
「今はこの二台です」
「分かってる」
通信兵の青年が、机上のマナ・セルを見ていた。
「これ、俺みたいに魔法が使えなくても使えるんですよね」
「充填済みの槽があれば」
レイルが答える。
「なら......戦場だけじゃなくて、山火事とか、遭難とか。町の外で助けを呼ぶ時にも使えますか?」
レイルはすぐ返事をしなかった。
今は軍用試作機だ。高価で、重く、壊れやすい。
それでも、線を引けない場所から声を届けられる。
「今すぐは難しい。でも、そうしたいな」
自分の口から出た言葉に、セレネが顔を上げる。
「軍用で終わらせない?」
「うん。魔力が多い奴だけの道具にもしたくない。助けを呼ぶのに、魔術師である必要はないだろ。むしろ魔力がない人が魔術師や軍に助けを求めるために使えるべきだ」
ロッテが端末の側面を指で叩いた。
「じゃあまず、落としても壊れない第2号の改良だね」
ノアが続ける。
「その次は混線対策です。民間へ落とす話は、軍用試験で人を殺さない証明をしてからにしてください」
セレネは記録紙の一番下へ一行を書き足した。
【将来用途:救難・医療・民間通信】
まだ空想に近い一行だった。
だが、消す者はいなかった。