未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
三つの核が同時に光った瞬間、王骸獣の身体から、それまでとは質の違う振動が走った。
胸郭の下で赤黒い光が膨らみ、右肩の骨板が内側から押し上げられる。さらに尾の付け根へ灰白色の魔力が集まり、三ヶ所を繋ぐ筋が脈打つたび、地面へ埋まった脚が石畳を砕いていった。
五路演算晶を展開したセレネの周囲では、五本の青紫の術式線が同時に明滅している。南橋にはまだ約600人。治療所には新たな負傷者。西倉庫の火災は鎮まりきっておらず、地下魔導炉も完全停止させれば別の区画へ圧力が逃げる。
怪物の三核を一度に叩くことだけなら、できるかもしれない。
だがしかし、それを今やれば、南橋へ向かって巨体が倒れる可能性があった。
「レイル、まだ撃たないでください」
セレネの声が飛んだ。
「分かってる。倒すには角度が悪い」
「違います。倒す前に、道がありません」
青紫の演算光が地図の南側へ集まり、橋へ続く二本の避難路を示す。一方は王骸獣の右前脚に潰され、もう一方は倒壊した三階建ての商館が道幅の半分以上を塞いでいた。
南橋そのものが持っても、そこへ辿り着けなければ避難は止まる。
『第二路、避難列停滞! 先頭ガ瓦礫前デ停止!』
ニアの声と同時に、セレネからリィナへ【念話】が飛ぶ。
『リィナ。南東通り、商館倒壊。橋へ抜ける道が塞がりました』
『見えてる。人はあとどれくらい?』
『瓦礫の手前に約140人。建物内部は退避確認済みです。ただし、王骸がもう一度右へ踏み込めば道路ごと潰れます』
『じゃあ、開けるよ』
返事に迷いはなかった。
リィナは王骸獣の左前脚から距離を取り、南東通りへ走った。赤栗色の長髪は戦闘用に高く束ねられ、汗と粉塵で頬へ細い毛束が張り付いている。右手には愛用の【継刃】。左足の補助具から短く風が噴き、崩れた露店を瞬く間に飛び越えた。
瓦礫の前では、避難誘導の兵士が人々を押し戻していた。商館の外壁と二階床が折り重なり、道を斜めに塞いでいる。正面から壊せば、上に残った石材が避難列へ崩れる。
「剣聖殿! 上部が噛んでます! 右の柱を壊すと全部来ます!」
兵士の警告を聞きながらも、リィナは足を止めなかった。瓦礫の手前まで入り、剣を抜かずに一度だけ全体を見る。
石柱が二本。折れた梁が一本。二階床は左側の壁へ半分だけ残り、右側は荷車の屋根へ落ちている。人が一人通れる穴はあるが、140人を通すには狭すぎる。
後ろでは子供が泣いていた。年配の男が肩を貸され、足を引きずっている。
そして遠くから、王骸獣が地面を踏み抜く振動が近づいていた。
(全部斬ったら駄目ね)
剣を振るうなら、何を斬るかより、何を残すかを決めなければならない。
ラガンなら、力の通る一点を噛み砕く。
ヴァルカなら、崩れた後に戻れる場所まで刃の帰路へ入れる。
剣神の立つ廊下で感じたものも、まだ身体の奥に残っていた。
あの人なら、きっと一太刀で終わらせる。
けれど、自分はそこへ行きたいわけではない。
「全員、壁から離れて! 兵士さん、列を五メートル下げて!」
「何をするんです?!」
「逃げれる道を作ります。でも、崩すんじゃない。立ってるものを残して、邪魔なところだけ切るわ」
兵士が一瞬戸惑ったあと、大声で避難列を下げた。
リィナは【継刃】を抜く。
剣先を瓦礫へ向けた時、頭の中にいつもの“次”が浮かんだ。
一撃目で梁の張力を逃がす。二撃目で右側の石材を切り離す。三撃目で床板を斜めに落とす。
そこから四撃目――。
そこで、リィナは止めた。
(また繋ごうとしてる)
ヴィオラに読まれた自分の癖。次へ行くことを前提にした剣。
それを今ここで、そのまま使う必要はない。
「一回で終わらせなくていい。でも、次へ行くために振るんじゃない――」
小さく呟いて、右足を置く。
一撃目。梁の下端へ刃を滑らせ、力が集中している木部だけを断つ。ギシ、と商館上部が沈んだが、右柱は残った。
二撃目へすぐ繋がない。落ちる石の向きを見る。左壁へ荷重が移ったことを確かめてから、一歩だけ横へ動く。
継刃を返し、石床の角を斜めに削る。
ガァンッ!
欠けた床材が避難列とは反対側へ落ち、道幅が一人分から三人分へ広がった。
「まだ通らないで!」
リィナは剣を下げず、残った瓦礫を見た。
一連の型ではない。状況が変わるたび、そこで一度終わり、次の一歩を選び直す。
剣筋は途切れていなかった。
斬撃が一度途切れても、道を開くという目的は次の一手へ残っている。
背後で、低い轟音が響いた。
「リィナ!」
レイルの声が通信器から割り込む。
『王骸、右前脚がそっちへ行くぞ! 到達まで6.2秒!』
「それだけあれば十分!」
リィナが走った。
彼女は瓦礫の正面を捨て、商館に残った右柱へ向かった。柱を切れば上部が落ちる。刃を入れる場所は、その手前にある。
その手前に刺さっている鉄製の看板支柱へ剣を当て、根元だけを跳ね上げる。支柱が回転し、残った床板へ斜めに噛んだ。
即席の支え。その下へ空間ができる。
「今だ! 三列で一気に走って! 止まらないで!」
兵士が声を張り上げる。
人の列が動いた。
リィナは避難者と逆向きに立ち、迫る王骸獣を見る。右前脚が建物の向こうへ現れ、巨大な爪骨が路地の石畳を抉った。
『3.1秒!』
セレネの念話。
「分かってる!」
リィナは一度、継刃を鞘へ戻した。
兵士が目を見開く。
「なぜ剣を戻すのです?」
「これから開けるのは、瓦礫じゃないから」
右足へ重心を落とす。
王骸獣の爪骨は、避難列の最後尾へ向かって斜めに下りてくる。正面から受ければ、リィナの身体ごと地面へ埋まる。
斬り落とす必要はない。
進路だけ変えればいい。
抜刀。
【無終剣】の足運びが、今までと違う形で始まった。
敵へ最短で入らない。爪骨の外側へ出て、刃を斜めに当てる。両足の【脚圧噴射】を同時に使わず、右足だけを短く噴かせて身体を横へ押し込んだ。
ギャリィィィィィィィンッ!
継刃と骨が擦れ、火花が飛ぶ。真正面から止めず、爪骨の力を左へ逃がす。
王骸獣の脚が半歩だけ外へ流れた。
その半歩で、避難列の最後尾が射線から抜ける。
「さあ、行って!」
最後の老女が兵士に支えられ、開いた道を渡る。
リィナは押し流されるように五メートルほど滑り、踵を石畳へ食い込ませて止まった。
『避難列、瓦礫区画通過! 残りゼロ!』
ニアの声が響く。
リィナは息を吐きながら、王骸獣を見上げた。
胸の奥に、さっきまでなかった感覚が残っている。
敵を倒すために開く道ではない。
レイルの射線だけでもない。
誰かが帰る場所へ続く道を、剣で作る。
「……これか」
言葉にした途端、レイルが通信器越しに聞いた。
『何が?』
「あとで言う。今は王骸の相手!」
リィナは継刃を構え直す。
セレネから念話が入る。
『南橋への流入再開。第二路、安定しました。リィナ、今の経路確保を新規戦技として記録しますか』
「まだ名前つけるほどじゃ――」
そこでフィアの声が通信器から重なった。
『記録上、既存【無終剣】とは目的と終了条件が異なります。仮登録を推奨します』
「二人とも早い!」
王骸獣が吠える。
骨の内部から鳴るような低音が、地面と腹の底を同時に震わせた。
リィナは、その音を聞きながら笑った。
「……じゃあ仮で。【無終剣・道開き】」
今度の一歩は、敵へ向かわない。
南橋へ伸びる避難路と、レイルが撃つための空間。その両方を残す位置へ踏み出した。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
市場中央では、三核励起を続ける王骸獣へ、まだ誰も決定打を入れていなかった。
南橋の避難列が動いたことで、セレネの第二路にようやく余白が生まれる。
「残り412人。橋脚の亀裂進行は鈍化。あと四分あれば大半を渡せます」
フィアが数字を読み上げる。
「四分か」
レイルは王骸獣を見る。
三つの核が一度に光るたび、胸郭の外側へ魔力が漏れている。さっきまでは橋を守るため、壊す場所を限定していた。
今は少しだけ条件が変わった。
「セレネ。橋が空くまで、あと四分ほしい。あいつをここから一歩も南へ行かせたくない」
「四分ですか」
セレネはすぐに肯定せず、五路の表示を見た。王骸獣の三核は前回より明らかに強く脈打っている。
「今の出力を見た上で言っていますよね。次の三核励起が揃えば、さっきと同じ方法では止まりませんよ」
「見てる。俺一人なら無理だよ。でも、リィナが一本、道をこじ開けてくれた。あそこが使えるなら前衛を散らせるし、倒れる方向も選べる。四分間ずっと押し返すんじゃない。前へ進めない形を作れないか」
「撃破より、拘束を優先するんですね?」
「うん。今ここで倒して橋へ崩したら、俺たちが何のために止めてたのか分からなくなる」
レイルは南東通りを見る。
瓦礫の間を抜けて避難列が動き始め、さっきまで人で塞がっていた場所へ前衛が入れる余白が生まれている。
「アルドには東側をあと三十メートル下げてもらう。誰もいない西の空き倉庫は捨てる。リィナには左前脚を任せたい。俺は胸郭の励起を潰す」
「分かりました。では私も、倒すための五路ではなく、四分を稼ぐための五路へ組み替えます」
セレネは一度だけレイルを見た。
「ただし、無理だと思ったら私が止めます。今の貴方は、できると言われると限界までやる顔をしています」
「そこまで顔に出てる?」
「もう付き合いが長いので」
「じゃあ、止める時は頼む」
「最初からそのつもりです!」
青紫の演算光が五方向へ散る。
「第五路、固定戦へ移行します。四分間、王骸獣をここから動かしません!」
王骸獣の三核が、再び光った。
レイルは主芯を握り直す。
倒せるかどうかではない。
今は、動かさない。
それが終わった後で、次を決める。