未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
南橋の避難完了まで、残り三分十二秒を切った。
王骸獣の胸郭下で三核が励起し、骨板の隙間から赤黒い光が噴き出した。巨体は前へ進もうとしているのに、左前脚ではリィナが進路を外へ流し、右側ではアルドの防壁と避難誘導が人の密集をほどいている。
レイルの役目は、怪物を倒すことではなかった。
その場へ縫い止める。
しかも【未完】に頼らず、自分の魔法だけで。
「第五路。胸郭下核、次の励起まで2.8秒」
セレネの声が届く。
レイルは【七環外導架】の主芯を右手で握り、左腕環と背部環を開いた。腰媒体には未完保持の表示が並んでいるが、そこへ触れない。
右掌に風圧核。
左腕環へ圧縮層。
背部環へ偏向層。
そして足元、右足側の人工導出端へ固定層。
四つ。
これまでも四つの術式を重ねること自体はできた。セレネやニアの補助があれば、もっと多い。
しかし今回は違う。
四層の形成、維持、終了までを、自分一人の魔法として通す。
『魔力経路負荷、上昇。右肩38%、左前腕31%、背部排圧正常』
ニアの表示が視界の端へ出る。
「数値表示だけだ。制御は俺がやる」
『了解。ニアちゃん、見守り担当』
始動。
最初の風圧核が右掌の前に生まれる。その核を目に見えるほどは大きくしない。拳より小さな圧縮空気の塊を作り、回転数だけを上げる。
形成。
左腕環から二層目を被せる。外へ散る圧を内側へ戻し、風圧核を細長く変える。
三層目は背部環。反動を後方へ逃がし、射出時に身体が持っていかれないよう流れを分ける。
四層目。
右足側へ置いた固定層が、発射直前まで術式の軸を地面と平行に保つ。
四つの処理が頭の中で別々に動く。
詠唱はない。
言葉で工程を順番に確認していた頃なら、この時点で王骸獣はもう一歩進んでいる。
今は、身体の内側に工程が沈んでいた。
(右掌、収束。左、圧縮。背中、排圧。足、固定)
【刻差知覚】で、四層の完成時刻を揃える。
時間を止めているわけではない。ただ、どれが先に終わり、どれが遅れているのかを、魔力の減衰と形成速度から読む。
右掌が0.2秒先行。
左を少し絞る。
背部排圧が遅い。
外導架の角度を変える。
「レイル、右へ1.2メートルです」
セレネ。
「見えてる」
王骸獣の肋骨と市場の鐘塔が射線上で重なりかけている。
レイルは【短距離転移】を使わない。今は四層形成の途中だ。別系統を割り込ませれば、せっかく自分だけで揃えた処理が崩れる。
右足で一歩。左足で半歩。
地面を蹴って位置を変える。
「射線、空きました」
セレネの声を受けたところで、王骸獣の胸郭核が最大まで膨らんだ。レイルは四層のずれが消えたことを確かめ、そのまま結着へ入る。
四層が同時に閉じた。
空気を巨大な布ごと裂くような音が走った。細く圧縮された風圧が市場を横切り、胸郭下の骨板へ突き刺さる。
ガギィンッ!
骨板そのものは砕けない。
狙ったのは、その奥で膨らんだ魔力の流路だった。
風圧が赤黒い筋を横から押し潰し、三核のうち中央だけが一瞬暗くなる。
『主核供給、41%低下!』
ノアが叫ぶ。
王骸獣の右肩が落ちた。
巨体が前へ進む力を失い、左へ傾く。リィナが即座に外側へ回り、倒れ込みだけを空き倉庫側へ誘導する。
ドォン――ッ!
石畳が跳ね、倉庫の外壁が一部崩れた。
「止まったぞぉぉぉっ!」
通信兵の声が上がる。
レイルは発射姿勢を解きながら、自分の右肩を動かした。
痺れはある。だが、未完保持へ逃がしていない。術式は終わっている。反動も自分で受け、排圧も終わらせた。
「ニア。全工程終了確認」
『四層全工程、正常終了。残留圧3%以下。再使用推奨間隔、現状48秒』
「よし、十分だな」
口にした時、胸の奥に妙な静けさがあった。
派手な達成感ではない。
自分の固有律がなくても、ここまでできる。
『レイル、今の……【未完】、使ってないよね?』
通信器越しのリィナの声には、戦闘中とは思えないほど素直な驚きが混じっていた。
「使ってない。形成から結着まで、全部俺の魔法だけでやった」
『四層、全部? セレネの外部保持も、ニアの代行もなし?』
「セレネは射線確認。ニアは負荷監視だけ。四層そのものは俺が通した」
『マジで? レイル、それ普通にすごいよ!』
声が一段明るくなる。
レイルは主芯を握ったまま、少しだけ目を瞬いた。
「そんなに驚く?」
『驚くに決まってるでしょ! だって昔のレイル、魔法一個撃つだけでも“暴発したら”“終わらなかったら”って何回も確認してたじゃん。今は四つ重ねて、しかも【未完】で止めないで最後まで自分で終わらせたんだよ? 私、ずっと隣で見てきたんだから、すごい時くらいちゃんとすごいって言わせてよ』
「……そっか」
『何、その顔が見えそうな返事』
「いや。ありがとう。リィナにそう言われると、思ってたより嬉しいな」
今度は向こうが黙った。
「リィナ?」
『急にそういう返しするの、本当にずるいよね!』
「何が?」
『こっちは戦ってる途中なの! あとで照れる時間にするから、今は王骸のほうでも見て!』
「了解。あとでな」
『あとでって言うな! 余計意識するでしょ!ばかっ』
通信が切れる。
横でセレネが第五路の演算を続けながら、眼鏡を押し上げた。
「リィナの心拍は計測していませんが、声量は上がりましたね」
「分析しなくていい」
「私は何も分析結果を言っていません」
「言ってるじゃないか」
セレネの口元がわずかに上がる。
しかし次の瞬間には、視線が地図へ戻った。
「南橋、残り281人。王骸獣の停止推定時間、二分以内です」
「もう一発撃てば」
「今と同じ四層は48秒空けてください」
「ニアと同じこと言うな」
「安全値です」
レイルは肩を回し、呼吸を整える。
王骸獣の三核は再び光り始めていた。さっきの一撃で中央核の励起が遅れている。三つが同時に揃わない。
そこへフィアの【記録律】が噛む。
「励起順、四巡目。中央核、前巡比8%低下」
「いいね、積み上がってる」
レイルが言う。
「はい。ただし、次に違う順序を選ばれれば減衰は切れます」
フィアは冷静だった。
王骸獣は人格を失っている。残された王理が、いつまでも同じ順序で動く保証はない。
その予想通り、胸郭の光が突然消えた。
「変わった!」
ノアが叫ぶ。
「励起が脚へ移っています! 地下へ潜り直すつもりです!」
巨体の下で前脚が地面を掻いた。
もし再び地下へ入れば、都市基盤と魔導路を内側から破壊される。
「橋の避難は?」
「残り219名!」
セレネ。
「圧倒的に時間が足りないな」
レイルは市場北側に置いた【距離標】を見る。
前の訓練で作ったものではない。現場到着後、安全確認のため自分で打った標だ。距離17メートル。石畳。周囲に人なし。
普通の短距離転移なら使える。
未完で事前保持した転移ではない。
「セレネ。17メートル北へ飛ぶ。着地確認を頼む」
「標周辺、現在空き。三秒後まで大型瓦礫落下予測なし。許可します」
レイルは四層形成を完全に解除した後で、空間式へ切り替えた。
身体と外導架の占有範囲を重ねる。
始動。
形成。
結着。
距離が消えた。
次に足裏へ石畳が戻った時、王骸獣の潜行予定位置が正面へ来る。
脚力をほとんど使っていない代わりに、転移直後の平衡感覚にはわずかな揺れが残る。
(まだ連発は無理だな)
その一瞬を埋めるように、リィナが横から走り込んだ。
「レイル、転移の後! 一歩目が遅いよ!」
「平衡が戻るまで一瞬かかる。今はまだその違和感は消せない!」
「だったら、その一瞬は私の場所だね!」
リィナは言い終わるより先に走り込み、【継刃】で王骸獣の前脚を横から叩いた。真正面から止めず、地面へ沈む角度だけを外へずらす。その間にレイルは転移直後の揺れを踏み直し、ようやく両足へ重心を戻した。
「助かった。転移まで連携前提になるとは思わなかった」
「今さら何言ってるの! レイルが“一人で全部やらない”って決めたんでしょ。だったら転移の後に空く一歩くらい、私に埋めさせてよ!」
「言われてみれば、その通りだな」
「でしょ? だから次から、飛ぶ前に一言ちょうだい。突然目の前から消えられると、私だって合わせづらいんだから」
「分かった。座標と着地後の隙まで共有する」
「よし。そういうのが連携だかんね!」
リィナは満足そうに笑い、すぐ王骸獣へ視線を戻した。
セレネの【念話】が二人へ同時に入る。
『南橋、あと173人。二人とも、そこで一分半食い止めてください』
「了解!」
二人の返事が重なる。
レイルは右掌を開いた。
四層重層をもう一度使うには、まだ少し早い。
なら三層。必要なら二層。未完を使わなくても、選べる魔法は一つではない。
隣ではリィナが剣を構え、怪物の巨体よりも次に開ける場所へ目を凝らしている。
一分半。
以前なら長く感じた時間が、今はやることの数で短く見えた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
南橋から最後の避難完了が入った時、王骸獣は市場中央から一歩も南へ進めていなかった。
『第二路、避難者全員通過! 橋上残留、護衛12人のみ!』
セレネの声が、わずかに明るくなる。
「レイル。撃破へ条件変更できます」
「了解だ」
レイルは王骸獣を見上げた。
胸郭、脚、尾。七つの核。
さっきまでは壊してはいけなかったが、今は壊していい。
「今度は、終わらせる――」
右掌に、四層の最初の核が灯った。