未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
レグナを離れたレイルたちが次に向かったのは、十二地点のうち異常進行が最も早いサルテ旧診療街だった。
かつて大規模な戦傷者を受け入れた医療都市で、今は診療院と高齢者居住区が中心になっている。白環設備が見つかったのは旧中央病棟の地下だった。
到着前、レイルは住民が強制避難させられているものと思っていた。
だが、実際に目にしたのは逆だった。
「並んでる……」
リィナが馬車を降りたところで足を止めた。
旧中央病棟の前には、百人近い住民が列を作っていた。
軍に追い立てられているわけではない。年配者だけでもない。若い夫婦、片腕に古傷を持つ職人、幼い子を連れた母親。皆が自分から地下施設の受付へ名前を書きに来ている。
列の横では、灰白色の長衣を着た記録官たちが一人ずつ話を聞いていた。
「戻りたい日付は」
「正確じゃなくても構いません」
「その日に何があったか、覚えている範囲で」
穏やかな声。
暴力も脅しもない。
レイルは余計に警戒した。
「現地責任者は?」
組合の腕章を付けた男が駆け寄ってくる。
「地下入口にいます。ただ、止めようとしても住民が……白環側が『希望者のみ』と言っているんです」
「本当に希望者だけ?」
「今のところは。拒否した人間を連れていく様子もありません」
フィアが聞く。
「処置内容は説明されていますか」
「“最も戻りたい日を基準として現在との差分を修正する”と」
ノアの表情が険しくなる。
「説明として最低です。何が戻り、何が消えるのか書いていない」
「住民には、もっと分かりやすく言ってます」
男は列の先を見る。
「病気になる前へ戻せる。火事で失う前へ戻せる。家族が揃っていた日の記録があれば、その日を再現できる、と」
リィナが顔を上げた。
「家族が揃ってた日……死んだ人まで?」
「そこが分からないんですよ」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
地下へ降りると、診療街の古い石造りとは別世界だった。
白い床。継ぎ目のない壁。中央には円形の記録台があり、その周囲へ半透明の薄い板が何十枚も浮かんでいる。
最奥に、一人の女性が立っていた。
長身。銀白色の髪は腰近くまで流れ、灰白の長衣は軍服より行政官の正装に近い。淡い琥珀色の瞳には敵意がなく、それがかえって印象に残る。
「レイル・アルヴァートですね」
「名前を知っている?」
「記録がありますから」
女性は軽く頭を下げた。
「私は複写執行官エルネア・リヴァイス。この地点の【基準日保存】を管理しています」
セレネの【五路演算晶】が一枚だけ浮く。
ノアは周囲の文法を読んでいる。
リィナは【継刃】へ手を置いたが、抜かない。
「外の人たちに何をするつもりですか」
レイルが聞く。
「本人が選んだ基準日と現在を比較し、差分を複写します」
「時間を戻すということか?」
「いいえ、そうではありません」
エルネアは即座に否定した。
「時間逆行ではありません。過去は動かしません。保存された状態を現在へ写します」
彼女が指を上げる。
横の机に、縁が欠けた古い陶器の杯が置かれた。
「この杯は六年前、この施設で診療記録用に使われていました。保存状態があります」
【差分複写】
白い線が杯を包む。
欠けていた縁が埋まり、表面の傷が薄くなった。
新しい杯を作ったわけではない。現在の物体を、保存時の構成へ置き換えている。
「人間にも?」
「十分な記録があれば」
「魂はどうなるんです?」
ノアが割り込む。
「死者を同じ方法で作った場合、その人は本人ですか」
エルネアは少し考える。
「“本人”という語を何で定義しますか?」
「逃げないでください。記憶、身体、魂。死者の記録から再構成した存在に、死亡後も継続していた本人の魂が戻る証明はあるのかと聞いています」
「ありません」
エルネアはあっさり答えた。
リィナが眉を寄せる。
「じゃあ、死んだ家族を戻せるって言ってるのは嘘?」
「“生前の記録から、その人がいた日を再現できる”と説明しています。蘇生とは呼んでいません」
「外の人、そこまで分かって並んでる?」
「説明書には記載しています」
「説明書じゃなくて!」
リィナの声が強くなる。
「家族に会いたい人が、そこまで冷静に読むと思ってるんですか」
エルネアはリィナを見る。
「では、読まない人間へは救済を与えない方がよいですか」
「そういう話じゃない」
「私は、選択肢を提示しています」
リィナが言葉に詰まり、レイルが代わる。
「選択肢を出すなら、その後で何を失うかまで同じ大きさで言うべきだ。昨日の身体を写せば、今日までの変化はどうなる」
「差分ですから、置換されます」
「怪我が消える代わりに、その後鍛えた筋肉も?」
「基準日以降の変化なら」
「覚えた技術は?」
「身体依存の学習には影響が出る可能性があります」
「妊娠している人が妊娠前を選んだら?」
「処置対象から除外します」
「何で?」
「現在の生命を失うためです」
「じゃあ今の自分を失う危険があることは分かってるんだろ」
レイルの声が少し低くなる。
「それでも“昨日へ戻る”って言い方をするのか」
エルネアは怒らなかった。
「では貴方は、明日が今日より良くなると証明できますか?」
唐突な問いではなかった。
彼女にとっては、そこが中心なのだと分かる。
「そんなことは、できない」
「私はできます。昨日、幸福だった人がいることは記録で証明できます。家族が全員生きていた。病気になる前だった。戦争が始まっていなかった。家が焼けていなかった。明日が良くなる保証はなくても、幸福だった昨日は残っています」
淡い琥珀色の瞳が、列のある地上を見上げるように動く。
「なら、証明できる幸福へ戻す方が親切ではありませんか」
誰もすぐには答えなかった。
それはとても綺麗な理屈だった。だからこそ厄介だった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
地上へ戻ると、列の中にいた老夫婦がレイルたちへ声をかけてきた。
夫の方は左腕を肩より上へ上げられないらしい。妻は杖をついている。
「止めに来た冒険者さんかい」
「まずは調査に来ました」
レイルが答える。
「お二人は処置を受ける予定ですか?」
「わしはな。十三年前の事故より前へ戻れれば、この腕が動くんじゃ」
「その後の身体変化が置き換わる可能性は聞いていますか」
「ああ。説明された」
「それでも?」
「十三年、痛いんだよ――」
老人は笑わなかった。
「若いあんたには、十三年毎朝痛いってのがどれだけ長いか分からんかもしれん。治療院はもう無理だと言った。白環が信用できるかなんて知らん。それでも“可能性があります”って言われたら、並びたくもなろうて」
レイルは口を閉じた。
隣の妻が言う。
「私は受けないよ」
「ご夫婦でも意見は違うんですね」
「違っていいだろ?」
杖を握った手が夫の袖をつかむ。
「私は、この人の腕が動くようになってほしい。でも十三年前のこの人に戻って、今の孫の顔を見ても知らないなんて言われたら嫌だ。だから、もっと聞いてから決める」
夫が苦笑する。
「昨日からずっとそれで夫婦喧嘩してるんじゃ」
「今朝はあんたが逃げただけだろうが」
二人は喧嘩しながら一緒に列へ戻った。
リィナがその背中を見ている。
「単純に、止めればいいって話でもないね」
「うん」
レイルは答えた。
痛みが消える可能性を、自分たちの思想だけで奪うのも違う。
でも、選ぶための説明が足りないまま進ませるのも違う。
エルネアはそこを正確に突いている。
白環だから間違いだ、と一言で切れない場所まで来ていた。