未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
サルテ旧診療街での調査は翌日も続いた。
組合と治療院は、【基準日保存】を即時全面禁止にはしなかった。代わりに、身体への【差分複写】を行う前に第三者説明を入れ、本人が現在失う可能性のある情報を一覧化するよう要求した。
エルネアは意外にも、その条件を受け入れた。
「選択に説明が必要だという主張は合理的です」
彼女はそう言った。
「ただし、説明の結果として希望者が増える可能性も受け入れてください」
「そこは止めない」
レイルが答える。
「理解した上で本人が選ぶなら、少なくとも今は止める権利はない」
「貴方は白環の思想と相性が悪いのか良いのか、判断に困りますね」
「俺もそう思う」
会話を終えようとした時、エルネアが一枚の薄い記録板をレイルへ差し出した。
「貴方にも基準日候補が出ています」
レイルの手が止まる。
「俺は登録してないぞ?」
「この施設は来訪者の強い参照記憶を、候補として照合します。正式保存には本人同意が必要ですが」
「勝手に記憶を読むの?」
リィナの声が鋭くなる。
「内容そのものを読んではいません。感情強度と状態差分の候補だけです」
「十分嫌なんだけどそれ」
エルネアはレイルだけを見ている。
「確認しますか」
「しない」
答えた。
すぐに。
なのに、記録板の表面へ一瞬だけ文字が浮かんだ。
【候補対象:家族】
【参照状態:健康時】
胸の奥が冷えた。浮かんだのは、エナ――母の顔だった。
最近は調子の良い日もある。
笑う。縫い物もする。
幼い頃より疲れやすくなったことは、本人が隠しても長く一緒に暮らしていれば分かる。
「消してくれ」
レイルが言う。
エルネアは板を伏せた。
「見たくないのですか」
「見たくない」
それは嘘だった。見たい。
健康だった頃の母を。
昔のように朝から台所へ立ち、父へ小言を言い、リィナへ菓子を多めに包んでいた母を。
もしその状態を現在へ写せるなら。
(本当に――治るのか)
そう考えかけて、すぐに言い直す。それは治療ではない。今の母を、保存された状態へ“戻す”だけだ。
でも痛みがなくなるなら。苦しくなくなるなら。
今日までの差分を失っても、本人が望むなら――。
「レイル!」
リィナの声で顔を上げる。
彼女は近くにいた。
何も聞かず、ただこちらを見ている。
「……見たような顔しないで」
「見てないよ」
「見てるよ、少なくとも頭の中は」
「じゃあ見てる、んだな」
リィナは誤魔化さなかった。
「欲しいって思った?」
レイルは答えに詰まった。
セレネも、フィアも、ノアもいる。
誰も代わりに答えない。
「ああ、思った」
口にすると、妙に楽になった。
「母さんが元気になるなら、欲しい。今でも」
「うん」
「否定しないのか?」
「何で。私だってエナさんに元気でいてほしいもん」
リィナは少し近づく。
「ただ、レイルが一人で勝手に決めるのはやっぱり、嫌かな」
「分かってる」
「本当に?」
「……今、かなり危なかったから」
正直に言う。
リィナの顔が少しだけ緩んだ。
「なら言ってくれてよかった」
セレネが記録板の候補表示を見る。
「エナさん本人の現在意思は、ここにはありません」
「はい」
エルネアが答える。
「だから正式保存へは進めません」
「それなら、レイルへだけ見せる意味は?」
「本人が何を望むかを知るためです」
セレネの眉が寄る。
「そこが貴方たちの危ういところです。本人の希望を取ると言いながら、周囲の“戻ってほしい”も基準日形成へ混ぜる」
「家族の希望も重要でしょう」
「重要です。でも決定権ではありません」
フィアが静かに口を開いた。
「記録は、誰が何を望んだか残せます。レイルが母親の健康を望んだことも、エナさん本人が何を望むかも、別々に記録できます」
エルネアを見る。
「記録は答えではありません」
フィアの手が自分の胸元へ触れる。
「私は以前、記録できることしか価値がないと思っていました。でも今は、残した記録を次の判断へ使えることも知っています。過去をそのまま固定するより、次を選ぶ材料にしたいです」
「同じ失敗を繰り返す可能性も残ります」
エルネアが返す。
「はい」
フィアは否定しない。
「残ります。でも、それを消すために選択そのものをなくしたら、記録する意味もなくなります」
エルネアの琥珀色の瞳が、わずかに揺れた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
白環施設は正式処置を行わず、“候補表示”だけを一つ出した。
レイルが希望したわけではない。検証用に、家族記憶の参照強度だけを可視化するためだとエルネアは説明した。
空中に、エルデ村の台所らしい輪郭が浮かんだ。輪郭は精密さを欠き、顔立ちにも少し曖昧さが残っている。それでも、台所で振り返った若い女性がエナだと分かった。
体調を崩す前の背筋の伸びた姿で、手には布を持ち、口元だけが何かを言う形に動いている。音声記録はない。レイルの指先がわずかに震え、胸の内へ呼び慣れた「母さん」という言葉が浮かんだ。
帰れば当たり前にいると思っていた人。失う可能性を、まだ現実のものとして考えたこともなかった頃。その感覚が胸の奥から戻ってきて、レイルは映像へ一歩近づきかけた。
足を出す直前で止まる。
映像のエナは、今のレイルを知らない。
Aランクになったことも。
王核大陸から帰ったことも。
小説を書き続けていることも。
母本人が最近どんな気持ちで体調と付き合っているのかも、ここにはない。
「止めてくれ」
レイルが告げると、映像はすぐに消えた。白い残光が薄れるのを待って、エルネアが静かに問う。
「苦痛でしたか」
「いや、見たかったけどな」
レイルは目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。
「今でも、あの頃の母さんへ戻ってほしいって思ってる。でも、あれを今の母さんへ上書きするかどうかは、俺が決めることじゃない」
「本人が望めば?」
「その時は、もっと調べる。何を失うか。どこまで戻るか。他に治療がないか。母さんが本当に分かった上で選んでるか」
「それには、時間がかかりますよ」
「だからこそ、時間をかける」
「その間に状態が悪化する可能性もあります、最悪の状態になるかもしれない」
「それでも、急がせる理由にしたくないんだ」
エルネアは静かにレイルを見た。
「貴方は、選ぶことを慎重に考えすぎている可能性がありますね」
「そうかもしれない」
レイルは認めた。
「でも俺は、選ばないまま終わったものが多すぎた。だから今度は、間違える可能性ごと選ぶしかない」
リィナが隣へ立つ。
セレネもいる。
誰も「正しい」と言わない。
それでよかった。
エルネアは記録板へ一行追加した。
【対象:レイル・アルヴァート】
【基準日受諾:保留】
【理由:本人決定権不在】
「保留か......」
「拒否ではないでしょう」
「今は拒否だけどな」
「将来、エナ・アルヴァート本人が望んだ場合は?」
レイルは少し考えた。
「その時は、また最初から話すことにする。家族とも、仲間とも十分話し合ったうえで決める」
エルネアは初めて、ほんの少しだけ笑った。
「それを白環では“非効率”と呼びます」
「そんなこと知っているさ」
「ですが、私はあなたを嫌いではありません」
その言葉だけを残し、彼女は記録板を閉じた。