悪役令嬢は世界のバグを修正する
止められた礼堂跡地に、
細い風の道だけが通っていた。
白い格子線に支配された静止世界。
その中心を、
レティシアが一歩ずつ進む。
彼女の足元だけ、
空気が流れ、
砂が転がり、
時間が息をしている。
ルシアンは動かない。
剣にも触れず、
構えも取らず、
ただ彼女を見ていた。
その視線は変わらず冷静だったが、
先ほどまでの確信だけは薄れている。
想定外の現象。
管理外の接続。
理解不能な例外。
彼にとってそれは、
危険と同義だった。
「それは“使っていい力じゃない”」
静かな声が、
停止した空間へ落ちる。
怒りはない。
非難というより、
事実確認に近い声音だった。
レティシアは足を止める。
彼の前、
あと数歩という距離。
白い格子が二人の間で微かに明滅していた。
「……使ってるんじゃない」
息を整えながら、
彼女はゆっくりと答える。
「“触れてるだけ”」
その言葉に、
後方の騎士たちがざわめく。
意味が分からない。
だが、
ルシアンだけは理解した。
力として行使していない。
命令も支配もしていない。
ただ接続し、
応答を得ている。
それは術式体系の外側にある概念だった。
「触れられること自体が異常だ」
ルシアンの声が、
わずかに低くなる。
「境界は閉じられている」
「管理されている」
「誰もそこへ手を伸ばせないから、世界は保たれている」
それは彼の信念だった。
秩序とは、
届かない場所を決めること。
触れてはならないものを隔離すること。
だからこそ、
人は安全に生きられる。
レティシアはその言葉を聞き、
静かに目を細める。
彼の言っていることは分かった。
間違っていないとも思う。
だが、
それでも。
「閉じてる方が、正常なの?」
問いは短かった。
けれど、
その一言が空気を変えた。
ルシアンの視線が止まる。
レティシアは続ける。
「誰も見えない場所で」
「誰にも触れられない場所で」
「誰かだけが勝手に決めてるなら」
彼女の視界には、
神殿の干渉痕。
書き換えられた結界。
濡れ衣として使われた事故の痕跡。
それらが今も焼き付いている。
「それって、本当に正常?」
沈黙が落ちた。
風のない世界で、
彼女の周囲だけ空気が流れている。
閉じた秩序の中に、
小さな疑問だけが動いていた。
ルシアンは答えない。
答えられなかった。
彼の中で、
これまで疑わなかった前提が揺れている。
管理されているから安全。
閉じられているから安定。
触れられないから正しい。
その論理に、
初めて穴が開いた。
白い格子線が、
わずかに明滅を乱す。
それは術式の揺らぎか、
術者の揺らぎか。
誰にも分からない。
礼堂跡地の中央で、
二人はまだ一歩も剣を交えていない。
それでもこの瞬間、
もっと深い場所で決着が始まっていた。