悪役令嬢は世界のバグを修正する
夜の王都は美しかった。
宿舎の窓を開けると、
春先の冷えた風が静かに入り込み、
遠くで鐘の音が一つ鳴った。
高台にあるこの建物からは、
都の半分以上が見渡せる。
王宮へ続く中央通りは、
魔導灯の列が星の川のように伸び、
白い石畳が淡く光を返していた。
広場ではまだ宴の音楽が続き、
噴水の水面に灯りが揺れている。
貴族街の屋敷窓には黄金色の明かりが満ち、
笑い声が夜気に溶けていた。
誰が見ても、
繁栄した都だった。
けれどレティシアの視線は、
そこには留まらなかった。
もっと手前、
宿舎の下方にある生活区画へ落ちる。
夜も更けているのに、
パン屋の前にはまだ列があった。
肩を寄せ合う親子。
外套にくるまって順番を待つ老人。
空の籠を抱えた女たち。
昼間より声は少ない。
疲れ果て、
怒る力さえ残っていない沈黙の列だった。
別の路地では、
荷車の脇に座り込んだ商人が、
届かなかった許可証を待ちながら眠っている。
灯りの消えた市場の前で、
明日の値上げ札を書き直している店主も見えた。
同じ王都。
同じ夜。
同じ空の下。
なのに、
窓一枚の向こうで世界が分かれている。
彼女の視界に、
いつもの文字列が淡く浮かんだ。
RESOURCE FLOW
RESTRICTED
PRIORITY
SELECTIVE
流れはある。
止まっていない。
だが、
行き先が選ばれている。
(神殿は……上から止めていた)
前巻の記憶が蘇る。
白い制御格子。
強制固定。
権限封鎖。
世界そのものへ被せられた管理。
あれは分かりやすかった。
巨大で、
冷たく、
明確な敵だった。
(でもここは……)
彼女は窓枠へ手を置く。
眼下で、
列の最後尾に子どもが並び直した。
店の奥では、
まだ売るだけのパンがある。
けれど渡されない。
順番が来ない。
金が足りない。
許可が下りない。
誰かが決めた線の外にいる。
(……人が人を止めてる)
その理解は、
神殿の正体を知った時とは別の重さで胸に沈んだ。
世界の構造が歪んでいるのではない。
人間の構造が、
人間を押し潰している。
魔法でもない。
神意でもない。
怪物でもない。
制度、
慣習、
利権、
無関心。
名前のついた無数の手が、
静かに誰かの喉を締めている。
レティシアは目を閉じた。
自分がこれまで戦ってきた敵は、
理解しやすかったのだと初めて知る。
壊せばいい壁だった。
斬ればいい鎖だった。
だが今、目の前にあるものは違う。
それは人の中にあり、
街の中にあり、
この国そのものに編み込まれている。
窓の外では、
煌びやかな王都が変わらず輝いていた。
その光の下で、
誰にも見えない形の檻が、
静かに閉じ続けていた。