未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
激しいガルヴァド戦から6日後、調査隊は森都リュミエルの外縁へ着いた。戦いの翌日まで声が戻らなかったレイルは、今も長い会話を続けると喉の奥が乾く。右腕の炎症はほぼ治まったが、ミレアの許可は変わらず4件保持までとされた。
アルドは背中の打撲と左腕の筋損傷で盾を持てず、ノアから「守護前衛が治療命令を守れるか」という査読を毎朝受けていた。環刃短杖は、ロッテの腰の部品箱に分解されていて、リィナの愛剣は、炉都から先回りする灰環便で森都へ送られる予定だった。
腰にあるのは、ガルヴァド戦で刃を欠いた借り物ではなく、牙冠王の武器庫から借りた細身の片手剣である。誰も元どおりではなく、その状態で森の入口へ立つと、最初に見えた異常は、傷ではなく美しさだった。街道の両側に並ぶ木々は、全て高さが約18メートル。
幹の太さも、枝が分かれる位置も、葉の枚数さえ似通っている。枝先には薄紫色の花が同じ数だけ咲き、風が吹くたび、同じ角度で一斉に揺れた。花びらが落ちる時刻まで揃っていて、1枚が落ちると、森の奥から外縁まで、ほぼ同時に薄紫の雨が降った。
「きれい……だけど、気持ち悪い」
リィナが小さく言った。
「見た目だけなら、整備された庭園ですね」
セレネは眼鏡の奥で枝の角度を追う。
「自然成長では、隣接木の光量、土壌、水脈、病害が異なります。ここまで一致する確率は、意図的な制御なしでは成立しません」
「木の魔力波形も同じです」
フィアが記録板を見せた。
「測定した32本、樹液量も魔力密度も誤差0.2%以内です。問題はそこだけではありません。白環側の年齢記録まで、全て同じ値へ揃えられています」
「年齢まで? 見た目はどう見ても違うのに」
「はい。若木も古木も、表示上は全て樹齢86年。健康状態だけではなく、『最も望ましい年齢』そのものへ履歴を書き換えようとしています」
実際には、細い若木も、何100年も立っていたと思われる太い根もある。それなのに白環表示は、最も健康な1本の状態へ全てを揃えていた。ニアが黒銀の猫型で地面へ降り、落ちた花びらを前脚で触る。
『花弁サイズ、色、魔力含有量、全部いっしょ。盛れてるっていうより、同じ顔をコピペした感じで怖いにゃあ』
街道脇の白い杭が反応した。
【外形誤差を検出】
【不要形態:猫型】
【標準対話形態へ修正を推奨】
ニアの耳がぴんと立つ。
『は? 猫型は不要じゃないし。省魔力・隠密・かわいさの三拍子なんですけど?』
「最後は機能ではない」
『使用者満足度に直結する重要性能!』
杭から白い光が伸び、ニアの猫型を少女型へ変えようと輪郭を引っ張る。レイルはオムニアの遮断層を起動した。
「外部修正を拒否。ニアの形態は本人と使用者の選択だ」
『レイル、今のは高評価。あとで褒め札あげる』
白い光が消え、森の奥から、弓を持った者たちが現れた。長い耳、淡い緑や金の髪、木と布を重ねた軽装。人間圏で【森人族】と呼ばれる種族である。
ただし全員が似た容姿ではなく、肌の色も身長も、耳の長さも異なる。白環杭の影響を受けているのは、主に森と植物だった。先頭の女性が弓を下げる。
「猫の形を守った者が、未完の術師殿ですか」
「俺はレイル・アルヴァート。特殊結着調査隊として来た」
「森都側の案内役、エリアナです。ネフェラ様がお待ちです。ただし、街へ入る前に確認します。枯れた木を見て、治したいと言わないでください」
クラリスの目がわずかに動いた。
「負傷や病害が明らかな場合でも、外から治療を始めないのですか。放置すれば悪化する時もあります」
「緊急時は別です。でも、長く生きる森では、傷や枯れまで生き方の一部になっていることがあります。本人が望み、周囲の森も受け入れるなら治療する。『健康だから正しい』を外から押しつけないでほしい、という意味です」
「理解しました。治療の申し出は先に行い、受諾を確認してから術式へ入ります。緊急例外も、こちらだけで決めず条件を共有します」
エリアナはクラリスを数秒見てから頷いた。森都リュミエルは、巨大樹の枝と枝を橋でつないだ都市だった。地上には畑と工房、幹の中には倉庫と治療室、上層の枝には住居と会議場がある。
透明な樹液を流す水路が空中橋の下を走り、鳥の羽を持つ住民や小柄な獣人も暮らしていた。ところが都市中心へ近づくほど、家の形まで似始める。窓の数は4つ。
屋根の傾斜は30度。入口の高さは2メートル。曲がって育った枝は白い補強環で真っすぐにされ、節や瘤は「成長誤差」として削られていた。
住民の服装までは統一されていない。それでも、木が作る生活空間が同じ形へ近づけば、置ける家具も、歩く経路も、住み方も少しずつ限定される。
「この木、前は窓が3つだったんです」
案内役のエリアナが、同じ形の家を見上げた。
「祖母が、朝日が眩しいから東側を塞いだ。白環杭は、最も採光効率のいい家を基準に4つへ戻しました。祖母は今も、毎朝その窓へ布を掛けています」
「家を壊してはいない」
クラリスが言う。
「でも、選んだ形は消した」
エリアナは責めずに答えた。クラリスは言葉を返さず、その家の東窓を見て、花柄の布が1枚だけ垂れ、同じ窓が並ぶ中で小さな違いを守っている。エリアナが次の家へ進もうとした時、セレネが東窓の脇へ残る白い補強環に気づいた。
「待ってください。この環だけ、他より修正周期が短いです」
眼鏡を押し上げ、セレネは壁際へしゃがむ。淡い金髪が肩から滑り、胸元の魔導演算石が細い光を返した。レイルも隣へ寄り、補強環の奥を流れる白環文法を覗き込む。
「家の傾きを直しているんじゃない。床の根まで基準位置へ戻してる」
「ええ。東窓を閉じたことで荷重が変わり、その差まで誤差扱いして――」
言い切る前に、足元の生きた床が大きく脈打った。白環が、曲がった根を”正しい高さ”へ戻そうとしたのだ。
「セレネ!」
彼女の右足が浮く。レイルは反射的に左手を伸ばし、まだ炎症の残る右腕を使えず、肩では支え切れない。セレネの身体を引き寄せる形になり、2人とも壁際へよろめいた。
背中に柔らかな樹皮が当たる。セレネの眼鏡がずれた。顔が近づいた。
避ける暇はなかった。
二人の唇が、触れた。本当に一瞬だった。
けれどレイルは、何が起きたのか理解するより先に、そこだけ妙に鮮明な温度を覚えた。転倒の衝撃も、右肩の痛みも、その瞬間だけ遠くなる。セレネの息が止まり、青紫の瞳が至近距離で見開かれていた。
セレネが慌てて身体を離す。次の瞬間、彼女の周囲へ白い光が浮かんだ。1つや2つではない。
淡い金髪の周りへ小さな光球が次々と生まれ、肩の上、耳の脇、頭上へ数えるのを諦めるほど増えていく。白環の均一な直線光とは違う。形も大きさもばらばらで、セレネ自身の魔力が感情の逃げ場を失って丸く弾けていた。
「セレネ……?」
返事がない。いつもなら事故原因、接触角度、再発防止まで一息に並べる彼女が、今はずれた眼鏡へ指を添えたまま、何ひとつ言葉にできずにいる。頬だけではなく、耳まで真っ赤だった。
「怪我は――」
そこまで言って、レイルは口を閉じた。(今、最初に聞くのはそれじゃない気がする)正解は分からない。それでも、いつものように安全確認へ逃げれば、今起きたことまで事故報告書の1行へ押し込める気がした。
「……ごめん。支えきれなかった」
セレネの唇が僅かに動く。
「……事故、です」
やっと出た声は、普段よりずっと小さかった。
「分かってる」
「分かっています。私も……分かっています」
そう言ったのに、白い光球は減らない。
『接触時心拍上昇――』
「ニア」
セレネが即座に顔を上げた。今度だけは声が戻る。
「表示しないでください」
『えっ、でも過去ログとの比較が――』
「しません。今回は記録しません」
『りょ、了解。恋愛データ、本人権限で非表示にします』
レイルは思わずセレネを見て、感情まで測って名前を付けたがる彼女が、自分から数字にしないと言った。
「……何してるの?」
背後から、リィナの声がし、振り向くと、数メートル先で彼女が立ち止まっている。腰の借り物の剣へ手は伸びていない。ただ、視線だけがレイルとセレネの間を往復した。
「違う、今、床が――」
「見てたから分かる。事故なのは分かってる」
リィナはそこで一度言葉を切った。
「でも、事故って分かったからって、何も思わなくなるわけじゃないから」
怒鳴らなかった。その方がレイルには刺さった。セレネはまだ赤い顔のまま、眼鏡を掛け直す。
「……私も、逆の立場なら不快です」
「不快って言い方、ちょっと固い」
「では、嫌です。かなり」
「……そっちの方が分かりやすいよね」
2人の間に、妙なところでだけ理解が成立する。レイルは口を挟みかけてやめた。事故だった。
それは事実だ。けれど、唇に残った温度まで”事故だから無かったこと”にするのは、何か違う気がした。その考えに気づいた途端、今度は自分の顔まで熱くなる。
『使用者、顔面温度上昇も記録対象――』
「おい、ニア」
『はい、黙りまーす!』
エリアナは少し先で待ちながら、森都の案内役らしい慎重さで視線を外していた。ネフェラの根元へ向かうまで、リィナはレイルの右側を歩き、セレネは左側を歩いた。距離は普段とほとんど変わらず、なのにレイルには、両側が妙に近く感じられた。
都市中心の大樹、その根元にネフェラはいた。人の女性に似た上半身と、幹へ続く下半身。肌には若い樹皮のような淡い模様が走り、深緑の髪には季節の違う葉が混ざっている。
右側には春の芽、左側には黄ばんだ秋葉、後ろには枯れた小枝が1本。瞳は琥珀と苔色が重なり、目を閉じるたび、周囲の葉が少しだけ揺れた。彼女は森人族ではなく、森都と長い年月を共にしてきた長命樹精霊である。
「戻ってきた旅人たち。初めましての者も、遠くから知っていた者も、よく来ましたね」
声は柔らかいが、森全体の葉擦れが一緒に響く。
「私はネフェラ。この森を所有してはいません。長く話を聞いているだけの存在です」
「白環杭を抜けば、元へ戻るのか」
レイルは表示と相手の顔を見比べて尋ねる。
「戻る木もあります。戻らない木もあります。既に削られた枝、同じ花へ変えられた種、根を移された若木。杭を抜くことは始まりで、事故前へ戻すことが答えではありません」
「杭の基準木は?」
「森の北にある若い1本。病害がなく、幹が真っすぐで、花付きが良い。その木の今を、白環は全ての正解にしました」
セレネが根元へ測定環を置く。
「基準木に悪意はない」
「ええ。だから切れば済む問題でもありません」
ネフェラはレイルの右目を見る。
「貴方は、完成を止める者だと聞いています。止めた後、違う形が生きられる場所まで作れますか」
「1人では作れない。森の住民と、木ごとの状態を聞く必要がある」
「良い答えです。時間がかかる答えでもあります」
クラリスが一歩出た。
「時間をかける間に病害が広がる木もあります。正しい形へ戻すことで救える命もある」
「あります」
ネフェラは否定しなかった。
「だから、貴女の力も必要です。ただし、誰の正しい形かを、その都度尋ねてください」
「尋ねる間に答えられなくなる者がいる場合は?」
「周囲の記録、本人が過去に選んだ手入れ、森への影響を見ます。それでも決められない時は、迷ったことを消さずに残します」
クラリスは静かに頷いた。会議の後、調査隊へ樹上宿が割り当てられた。大枝から分かれた3つの部屋で、床も壁も生きた木が自然に作っている。
部屋の大きさが均等でないため、フィアは人数と治療条件を照合して割り振ろうとした。
「大部屋6名、小部屋3名、根元治療室2名。男女別を優先すると、レイル、アルド、カインが小部屋。女性陣6名が大部屋。ミレアと負傷者1名が治療室」
「レイルはまだ夜間診断が必要です」
セレネは測定表示から目を離さず告げた。
「測定環を大部屋との境へ置けば、一応は届きます。ただし、生きた壁を挟むので波形がかなり減衰します。夜間痛の細かな変化までは拾えないかもしれません」
「なら私が小部屋の前で寝る。廊下なら扉越しの音も聞こえるし、何かあったらすぐミレアを呼べる」
リィナは当然のように言ったが、その提案を聞いたセレネが眼鏡を押し上げた。
「それ、廊下ですよ。寝床として数える場所ではありませんが」
「野営で岩の上に寝たこともあるし、ここの床は柔らかいよ。それにレイルが夜中にまた腕を庇って起きても、すぐ分かる」
「なら私も交代します。1人で見張る必要はありませんし、測定環の値も私が読めます」
「セレネは大部屋でちゃんと寝て。明日も術式解析があるでしょ」
譲るような言葉なのに、リィナの語尾には微妙な棘があった。セレネも気づいているらしく、眼鏡の奥で目を細める。
「リィナだけが近くにいる合理的理由なら、私には見つかりません」
「幼なじみ。10年以上の実績ありだけど?」
「共同研究者。夜間痛の測定実績あり」
「またその肩書きで張り合うの? 共同研究者って言葉、便利すぎない?」
「便利だから使っているわけではありません」
セレネが返した瞬間、耳の横へ白い光球が1つだけ浮かんだ。リィナはそれを見逃さなかった。
「……今日、その肩書きの説得力だけ妙に上がってない?」
「事故と夜間診断を同じ議題へ混ぜないでください」
「混ぜたくないのは私も同じ!」
レイルは木の壁へ手を当てた。薄い壁の向こうには、ちょうど小さな空洞がある。
「壁に測定札を1枚だけ通せばいい。ニアが数値を大部屋側へ投影する」
『ニアちゃん、恋愛防壁兼バイタル監視役。仕事増えてない?』
「夜は猫型で寝ていていい。異常時だけ起動する」
『それならアリ。あと、廊下で寝る女子2名は絵面が切ないので却下』
リィナとセレネが同時に黙った。ネフェラは少し離れた根から、そのやり取りを面白そうに見ている。
「同じ部屋へ揃えなくても、気に掛ける方法は幾つもあるのですね」
「本人が気づかない方法ばかり増えます」
リィナが答える。
「さすがに、2人が俺を心配して言っていることには気づいている」
「そこまではね。じゃあ、その先は?」
「その先というのは、心配の理由が幼なじみと共同研究者だけではない可能性について――」
「分析に戻るなああああ! 今、答えに近づいたのに!」
リィナが頭を抱える横で、森の葉が本当に笑っているように揺れた。夜、レイルは小部屋の窓から都市を見下ろし、月明かりの下でも、薄紫の花は同じ時刻に閉じ、同じ角度で枝へ戻っている。その中で、東窓へ花柄の布を掛けた家だけが、少し違う影を作っていた。
オムニアの上では、猫型のニアが丸くなって眠る。白環杭は、その形を不要な誤差と呼んだ。レイルには、同じでない形を守るために何を止め、何を完成させるべきか、まだ答えがなかった。
翌朝、森の北で、最も古い木の葉が1枚も落ちなくなったという知らせが届いた。