未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
森都北部の【古母樹】は、幹の直径が20メートルを超えていた。根は丘全体を抱き、幹の空洞には小さな祈り場と、種の保管庫が作られている。枝の半分は本来なら枯れ、幹にも長い空洞があるはずだった。
ところが白環杭の光は、古母樹を樹齢86年の健康な基準へ何度も、何度も、戻している。
新しい葉が一斉に開き、数分後には本来の老化が進んで黄ばむ。すると白い光が走り、葉はまた若い緑へ戻り、落ちようとした葉は枝へ引き戻され、種は熟す直前で未熟な状態へ修正された。
生きている。けれど、何も次へ渡せない。根元へ集まった森人族は2つに分かれており、保存派は、古母樹を森の歴史そのものとして残したいと願う。
更新派は、種を落とせず新しい木を育てられない状態こそ死に近いと主張する。どちらにも、古母樹を利用したいだけの悪意はない。
「これは――。杭を止めれば、古母樹は数日で枯れる可能性がありますわ」
クラリスが幹へ診断環を当てた。
「白環修正が、失われた水路と導管を一時的に補っています。停止後、自然状態へ戻るまでおそらくもたないでしょう。」
「あなたの【定型】で、修正前の状態へ戻せそう?」
リィナが眉を寄せて尋ねる。
「白環杭が刺さる直前へは戻せます。ただし、その時点でも古母樹は寿命の終わりに近かった。戻した後、長くて1か月。短ければ数日でその命は枯れてしまうでしょう」
「今のままなら?」
「杭が魔力を得る限り、若返りと老化を反復しますね」
保存派の長老が前へ出た。
「なら、杭を残すべきです。古母樹があれば、我々は過去を失わずに済むのです」
「過去を残す方法は、本人を終われない状態へ置くことだけですか?」
ネフェラが問う。
「ネフェラ様には、森全体の声が聞こえる。私たちは、この木の下で生まれ、この木の葉で死者を送ってきた。失う怖さを、同じようには――」
「同じではありません」
ネフェラの声は柔らかいままだった。
「私は古母樹より後にこの地に芽吹きました。そして、この木に冬を越す方法を教わった。ですから、誰よりも失いたくないのです。それでも、私が寂しいからといって、古母樹を無理に生かすよう命令するつもりはありません」
更新派の若い森人族が、幹の空洞を指す。
「種を落としましょう。古母樹が残れなくても、次の森を育てられます」
「熟していない種を落とせば、ほとんど芽吹かないぞ」
保存派が返す。
「だから杭を止め、最後の1か月で熟させるんです!」
「1か月ある保証などない!」
それぞれの声が重なり、根元の空気が張る。レイルは古母樹の魔力波形を見て、人の言葉ではない。だが、根から葉へ送られる流れには、白環修正のたびに同じ抵抗が生まれていると感じた。
若い状態へ戻されても、古い導管はまた枯れようとする。完成を望んでいるのか、停止を望んでいるのか。外からは断定できない。
「ネフェラ、古母樹自体の意思を、今からでも何か拾える?」
「そうはいっても、樹木ですから、人の言葉のようには話せません。でも、季節の流れなら分かります。春へ向かいたいのか、冬へ休みたいのか、その程度なら......」
「それだけでも大きい。本人が過去にどんな剪定や治療を選んできたか、記録は残ってる? 今の反応と重ねれば、外から決めるよりは近づける」
エリアナが祈り場から古い樹皮板を持ってきた。古母樹の枝をいつ落としたか、どの根へ水を回したか、病害時に何を残したか。ここ数百年分の手入れが刻まれていて、フィアが読み、選択の傾向を抜き出す。
「古母樹は、枯れた枝を切らず鳥の巣として残した記録が多い。病害枝は周囲へ広がる前に自ら樹液を止めています。種の成熟期には、他の治療より水分を種へ優先」
「自分の幹より、次の種を選んできた」
レイルは一度考えてから言葉を出した。
「過去の選択を、そのまま今の同意と呼ぶことはできません」
クラリスが慎重に返す。
「けれど、意識を言葉にできない存在へ、何も参照せず決めるよりは近い」
「白環修正を一時停止し、ネフェラが季節の流れを見る。その間はクラリスが導管を支えられるか?」
「完全な若返りではなく、現在の導管を壊れない形へ固定するなら可能です。時間は約10分」
「10分で種への流れが変わるかを見るぞ」
保存派と更新派の代表へ、セレネが手順を説明し、杭を永久停止する決定ではないと伝える。10分だけ白環修正を切り、古母樹が水と樹液をどこへ送るかを観測する。危険が高ければ再接続する。
観測結果を見た後、改めて両名で決める。
この意見に両派は完全には納得しなかったが、古母樹の現在を聞くための短い試行としてやむなく受諾した。レイルは白環杭の最後の修正工程へ触れる。
生命そのものではなく、若い状態へ戻す命令だけを【未完】へ取る。1件。白い光が止まり、クラリスが古母樹の導管へ【定型】を広げる。
「事故前ではなく、現在形状を10分固定。水路と導管のみ。種と葉の変化は戻しません」
ネフェラが幹へ両手を当て、目を閉じた。最初の1分、何も変わらず、2分目、枝先の葉が黄ばみ始める。白環は戻さない。
葉は風に揺れ、1枚、2枚と落ちた。保存派の長老が息を呑む。4分目、幹の水分が急速に減る。
クラリスの固定環へ負荷がかかり、白い袖が震えた。
「導管圧、低下。あと6分は維持できます」
「無理なら戻して」
レイルは手元の記録から目を上げて言う。
「まだ可能です。私が続けると選びます」
6分目、根から上がった水が幹ではなく、枝の先端へ集中し始めた。未熟だった種が膨らみ、外皮の色を変える。ネフェラの頬を、樹液に似た透明な涙が伝った。
「種へ送っています」
彼女は目を閉じたまま言った。
「自分の空洞を塞がず、葉を戻さず、残る水を種へ。古母樹は、次の春を自分の枝ではなく、種の中へ置こうとしています」
更新派の若者が泣き、保存派の長老は幹へ額を付けた。
「それでも、私たちは失いたくない」
「失いたくないと言ってよいのです」
ネフェラが答える。
「ただ、その寂しさで古母樹の水路を戻さないでください」
8分目、最初の種が枝から落ちた。地面へ届く前に、リィナが両手で受け、剣を持たない手で、割れないよう胸元へ抱えた。
「わぁ、温かい――」
「まだ生きています」
ミレアが種へ生命光を当てる。
「発芽可能性あり。今すぐ植えず、24時間は古母樹の根元で休ませてください」
約束の10分が終わる。クラリスが固定を解き、レイルは未完にしていた修正命令を返さず、白環杭そのものから切り離した。命令は完成先を失い、白い光が消え、古母樹は急に倒れなかった。
葉を落とし、種を渡しながら、ゆっくりと自分の重さへ戻っていく。余命が何日か、誰にも分からず。それでも、同じ10分を繰り返す環からは外れた。保存派は、幹の一部を永久保存する提案を出した。
更新派は、全て自然へ返すべきだと反対した。古母樹が種へ水を送った記録をもとに、最終的には「幹は森へ残し、落ちた枝だけを記録材として使う」「根は新しい種が自分で離れるまで掘り返さない」という期限のない保留が選ばれた。
これは美しい決着ではなく、反対する者も残った。フィアは、その反対意見も同じく記録へ書いた。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夕方、古母樹から自然に落ちた細い枝を、ネフェラがリィナへ差し出した。
長さ約40センチメートル、深い緑と銀色の木目が混ざっている。
「炉都から、貴女の剣の芯と新しい刃が届いていますよ。柄へ使う木を探していると聞きました」
「古母樹の枝を使っていいの?」
「切った枝ではありません。今日、落ちたものです。全てを記録材へせず、1本だけ旅へ出したいと、森の者たちが選びました」
リィナは枝をすぐ受け取らず、保存派と更新派の代表を見る。2人がそれぞれ頷いたのを確認してから、両手で受けた。
「ありがとう、大事に使います。もし戦いで傷つけても、勝手に捨てずに必ず持ち帰ります。どこが壊れたかまで見てもらって、必ず次へつなげます」
「壊れ方を見てくれる職人が、もういるのですね」
「うん。すごく怖い顔で怒るけど、最後まで直し方を考えてくれる人がいるよ!」
少し離れた場所で、ロッテが工具箱を持ったまま眉を上げた。
「おいリィナ、聞こえてるよ。私を怖い顔にさせるような使い方をする方が悪い。折れた物だけ戻ってきて、本人まで担架だったら笑えないからね」
「てへへ、でもロッテ、ちゃんと直してくれるでしょ。前の剣も、レイルの環刃もさ」
「直せる形で持って帰ってこればだがね。……まあ、持って帰ってきたなら、文句を言いながらでも何とかする。それが私の仕事だし」
ロッテは枝を受け取り、木目へ指を滑らせた。
「......うん、軽い。粘りもある。柄へ全部使うと柔らかすぎるから、薄く割って芯へ巻くよ。握りの振動だけ吸わせる」
「この、きれいな色を残せるかな?」
「ん、性能を落とさない範囲なら。……せっかく貰ったんだから、見えるところへ少し残さなくちゃね」
ロッテの最後の言い方に、職人以外の柔らかさが混じった。そんなロッテだから、リィナも安心して剣を任せられるのだ。
夜、古母樹の葉は、白環に戻されることなく落ち続けた。森人族たちは泣きながら拾い、全てを保存せず、一部は土へ返した。
レイルは落ち葉の音を聞きながら、自分が未完にした命令の記録を閉じる。生かす力を使わないことが正しいとは限らず、古母樹が種へ水を送った10分を見なければ、停止も保存も外からの決めつけになっていた。
終わる権利は、死を選ばせる言葉ではない。
何を次へ渡すかを、最後まで本人の流れから聞こうとすることだった。