未完の大魔導士――俺の近くでは何も完成しない――
王骸獣が完全停止してからも、河環都市レグナの災害は終わらなかった。
市場区画の地下魔導路は三ヶ所で破断し、南橋第二支柱の亀裂は広がったまま。避難者の大半は対岸へ渡ったが、救助隊、治療師、橋梁技師、最後尾の護衛がまだ南岸へ残っている。
王骸獣の巨体が地面へ倒れた反動で、橋脚下の地盤がもう一度沈んだ。
ミシィ――ッ。
石橋全体が低く鳴る。
『南橋、本部! 第二支柱変位! 橋面中央に新規亀裂!』
通信器から切迫した声が届いた。
「残留人数は?」
セレネが問う。
『橋上31、南岸作業員48! 負傷者搬送がまだ12人います!』
アルドは東広場でその通信を聞いていた。
白い防具の表面は粉塵で灰色に汚れ、【白誓魔鎧】の肩には王骸獣の骨片を受けた浅い傷が走っている。左手の【帰城盾】にもひびが一本入っていたが、本人の動きに大きな支障はない。
「俺が橋へ行きます」
アルドは迷わず言った。
現地指揮官が険しい顔で振り向く。
「待て。橋の耐荷重がもう読めん。王骸が止まった直後だぞ。これ以上人を乗せるなという判断が出ている」
「承知しています。だから帰城盾と肩装甲はここへ置く。徒歩で入り、橋中央から護陣だけを使います」
「装備を外したところで、お前一人分の重量は増える! 今から橋が落ちたら、助けに入ったお前まで救助対象になるんだぞ」
「それも分かっています」
アルドは指揮官の言葉を正面から受けた。
「でも今、まだ橋の上に31人、南岸に48人残っています。ここで全員を一度止めたら、恐怖で列が詰まる。俺が中央へ入り、荷重と退路を管理できれば、動かし続けられます。助ける人数を増やすために入るんじゃない。今いる人たちを、予定通り帰すために入ります」
アルドは盾を地面へ置き、重い肩装甲を外し始めた。
指揮官が苛立ったように近づく。
「若いの、聞け。王骸は止まった。避難民も大半は渡った。今から橋が落ちたら、残っている者まで全員は助けられん。優先順位を付ける段階だ」
「分かっています」
「なら――」
「だから、優先順位を付けた上で行きます」
アルドは指揮官を見る。
普段の真面目さと同じ顔だった。英雄的に死にに行く顔ではない。
「歩ける者を先に北岸へ。次に軽傷。担架は橋の揺れが小さい今のうちに四組ずつ出す。橋梁技師は第二支柱の監視に二人だけ残し、他は退避。俺は橋中央で荷重を分散する。落ちる兆候が規定値を超えたら、残っていても全員撤退します」
「撤退線を決めているのか」
「俺の完遂は、死ぬまで残ることではありません」
アルドは【誓護剣】だけを腰に残した。
「守ると決めた者を帰す。俺も帰る。そこまで終えて初めて完遂だと、俺はそう教わりました」
指揮官はしばらくアルドを見た。
やがて、歯を食いしばるように頷く。
「五分だ。五分で橋脚変位が止まらなければ撤退させるからな」
「はい。それで受けます」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
橋へ入った瞬間、アルドは足裏から振動を感じた。
石造りの橋面には、人の腕ほどの亀裂が中央へ伸びている。両岸を繋ぐ有線魔力電話は途中で切れ、垂れ下がった線が川風に揺れていた。
携帯通信器は南橋側に一台。しかし王骸獣の残留魔力の影響で雑音が増え、時々音声が抜ける。
「全員、止まらず北へ! 荷物は捨てていい! 記録箱は人より後だ!」
アルドの声が橋へ響く。
橋中央まで進み、両足を広げる。
【完遂護陣・改】。
淡い白金色の陣が足元から広がり、亀裂の両側へ薄い線を伸ばした。
この技は橋そのものを修復する魔法ではない。
崩壊を止める力でもない。
護陣の内側で、守る対象と退路を結び、衝撃と魔力負荷を自分の盾と装備へ分散する。
南岸から最初の担架が来る。
胸部を負傷した男。次に脚を折った女性。
アルドは橋面の揺れを見ながら、四人一組の担架隊へ間隔を指示する。
「走るな。三メートル空けろ。中央で止まるな。俺の前を通ったら北側だけ見ろ」
「騎士様、橋が――」
「見なくていい。俺が見ている」
言い切る。
怖がるなとは言わない。崩れないとも言わない。
見る役を自分が引き受ける。
一本目の担架が通過。
二本目。
三本目。
橋の下から、石が一つ川へ落ちた。
『アルド! 第二支柱、変位4センチメートル!』
フィアの声が通信器へ割り込む。
「撤退基準は?」
『7センチメートル。現状まだ範囲内』
「継続する」
南岸から作業員が戻ってくる。
最後尾に、年配の橋梁技師が二人。
「残りは?」
「地下点検の若いのが一人見えん!」
アルドの表情が変わった。
「場所」
「橋南端の点検口だ! さっきまでいた!」
通信器から雑音。
セレネの声が途切れ途切れに届く。
『アル――戻――点検口――』
その直後、完全に切れた。
通信器の術式板が暗くなる。
「中継が落ちたぞ!」
兵士が叫ぶ。
アルドは通信器を一度見て、それから南岸へ視線を向けた。
本部の指示は届かない。
だからといって、自分の判断まで消えるわけではない。
「技師二名、北へ。兵士四名、ここから先は俺の指示に従え。二人は担架補助、二人は北岸へ情報を走って伝えろ」
「アルド殿は?」
「点検口を確認する」
「一人で?」
「一人の方が橋へ載せる重量が少ない」
走り出す。
橋が上下へ揺れ、足元の亀裂が広がる。
アルドは速さを求めず、一歩ずつ荷重の少ない石を選んだ。南端へ渡り、点検口の石扉を開ける。
「誰かいるか!」
「ここです!」
下から声。
若い技師が梯子の途中で動けなくなっていた。落石で右足を挟まれている。
「足を抜けるか」
「無理です。石が――」
「分かった。三つ数えたら力を抜け。俺が引き上げる」
アルドは狭い点検口へ身体を入れ、誓護剣を鞘ごと石の下へ差し込んだ。
剣を梃子にする使い方を家の者が見れば怒るかもしれない。
だが、今はそんなことに構っていられない。
「一、二、の三――!」
石を持ち上げる。
技師が足を抜く。
アルドの腕へ痛みが走ったが、石を戻すまで手を離さない。
「立てるか」
「左なら」
「よし、肩を貸す」
地上へ戻った時、橋の中央から大きな破砕音がした。
ガゴンッ!
第二支柱がさらに沈む。
「急ぐぞ」
「俺を置いて――」
「その提案は却下だ」
「でも橋が!」
「帰還までが完遂だ。お前だけ対象外にする理由はない」
技師を肩へ乗せる。
重い。
白誓魔鎧を外してきた分、身体へ直接負荷が来る。
アルドは歩き続けた。
橋中央の護陣へ戻ったところで、北岸から叫び声が飛んだ。
「変位6.5!」
残り0.5センチメートル。
アルドは技師を下ろさず、歩幅を一定に保つ。
走れば橋面へ衝撃が増える。
「あと二十メートル!」
誰かが叫ぶ。
亀裂が足元を追ってくる。
完遂護陣の白金色が一度暗くなった。
(持たせる)
違う。
橋を持たせるのではない。
人を帰す。
アルドは帰城盾を持っていない。だから身体の魔力経路へ直接護陣の負荷を通す。胸の奥が焼けるように熱くなる。
北岸まで十メートル。
「アルド!」
ノアの声が聞こえた。
通信器ではない。
北岸まで戻ってきた本人が叫んでいる。
淡い金髪を風に乱し、赤紫の瞳がこちらを睨んでいた。
「はやく走りなさい!」
「走ると橋が――」
「理論は分かっています! あと何秒耐えるか聞いているんです!」
フィアが隣で記録板を見ている。
「変位6.8。増加速度、毎秒0.04から0.06へ上昇。基準到達まで推定3秒台!」
「それを先に言え!」
アルドは最後の数メートルだけ走った。
左足で踏み込み、技師を抱えたまま北岸へ飛び移る。
直後。
橋中央が大きく沈んだ。
ズズン――ッ!
完全崩落はしない。
だが第二支柱が斜めにずれ、橋面の一部が川へ落ちる。
アルドは北岸の石畳へ膝をついた。
肩から技師を下ろし、その身体を治療師へ渡す。
「全員?」
「橋上、残留ゼロ!」
兵士の声。
「南岸作業員も全員帰還!」
その報告を聞いて初めて、アルドは大きく息を吐いた。
ノアが正面へ立つ。
「貴方は、なぜ通信が切れたら“自分だけは大丈夫”という謎の仕様へ切り替わるんですか!」
ノアはアルドの正面へ立つなり、赤縁眼鏡の奥から睨みつけた。いつもの理論的な口調を保とうとしているのに、声が明らかに上ずっている。
「違う。撤退条件は守ったぞ」
「6.8センチメートルです! 基準7センチメートルに対して、余裕はたった0.2! あの状況で測定誤差も振動の加速もあるのに、それを“守った”の一言で済ませないでください!」
「橋脚変位は見ていた。最後の技師を回収した時点でも、帰還可能と判断した」
「判断できたことと、私たちが心配しなくていいことは別です!」
ノアの声が一段高くなる。
怒っている。それ以上に、橋の向こうからアルドが戻ってくるまで何もできなかった時間が、まだ身体に残っている。
「俺は帰っただろう」
「結果だけ見ればそうです。でも、貴方が戻るまで私は何度、“次の数値が7を越えたらどうする”って考えたと思っているんですか!」
「……ノア」
「帰る計画だった、は分かっています。貴方が死ぬつもりで残ったとも思っていません。それでも、怖かったんです。そこまで言わせないでください!」
最後だけ、研究者の言葉ではなかった。
ノアは自分で言ってから唇を噛み、視線を逸らした。
代わりにフィアが一歩前へ出た。
「記録します。アルド・クロイツ。通信断絶後、事前撤退条件を維持。独断で救助対象を追加したが、橋荷重と変位値を継続確認。結果、救助対象49人と本人が帰還」
「49人?」
「最後の技師を含みます」
フィアは記録板から目を上げた。
「訂正。私は、独断だったから怒っているのではありません。帰還条件を守れない独断なら止めます。でも今回は、守った。だから……」
少しだけ声が小さくなる。
「帰ってきてくれて、よかったです」
アルドが黙った。
ノアも横を向く。
「俺は帰るつもりだった」
「知っています」
フィアが答える。
「それでも、言っておきたかっただけです」
アルドは二人を見て、真面目に頷いた。
「ありがとう」
ノアが額へ手を当てた。
「そこで素直に受けるから怒りづらいんですよね、この人は……」
遠くで、崩れかけた橋がもう一度鳴った。
だが、その上には誰も残っていない。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
翌朝、現地組合支部で臨時査定が行われた。
査定では王骸獣を倒した実績より、避難計画、橋上救助、通信断絶後の判断記録が重く見られた。
支部長代理が一枚の札を机へ置く。
「アルド・クロイツ。大陸継路組合は、今回の国家級災害救助実績をもってBランクからAランクへの昇格を承認する」
アルドは札を見たまま、すぐには手を伸ばさなかった。
「俺一人の実績ではありません」
「分かっている。Aランクは一人で全部やった者に渡す札ではない。必要な場所で、自分の責任を果たした者へ渡す」
支部長代理は札を押し出す。
「受け取れ。次からは、その判断を他の者に求められる側になる」
アルドはようやく札を取った。
「受けます」
外へ出ると、レイルたちが待っていた。
リィナが一番に札を見る。
「A?」
「Aだ!」
「おめでとう!」
アルドの肩を叩く。
セレネも微笑む。
「正式に同格ですね」
「任務範囲が増えるな」
「最初にそれ言う?」
レイルが苦笑した。
「俺もAになった時、似たこと考えた」
「なら正常だな」
「俺を基準にするな」
ノアは腕を組んだまま、少し離れていた。
「おめでとうございます」
「ありがとう、ノア」
「次に橋が落ちる寸前まで残ったら、その札ごと私が取り上げますからね」
「権限がない」
「すぐに作ります」
フィアが横から付け足す。
「必要なら共同申請します」
「二人とも手厳しいな」
アルドは困ったように笑った。
Aランクの札は新しかった。
新しい札を受け取っても、腰の誓護剣も守り方も、昨日までと急に変わるわけではない。
違うのは、これから同じ判断を求められた時、もう「Bランクだから上へ任せる」とは言えなくなることだった。
アルドは札をしまい、皆を見る。
「次も帰す」
短い言葉だった。
その意味を、昨日の橋で全員が知っていた。